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竹岡2023『考古学研究法』 [全方位書評]

竹岡 俊樹 2023『考古学研究法 -分析から意味論へ-』雄山閣

「旧石器時代研究の基礎は、剥離という物理的現象を観察して、剥離面が人工か否かと、用いられた剥離技術を判別することである。
この「石器を見る」という作業は「方法」の問題ではない。地域も時代も石材の種類も関係がない。そして答えは1つしかない。それが判別できるようになるために研究者は努力している。答えがいくつもあるとすれば、それは研究者の訓練不足によるものである。(中略)
そしてこの「石器を見る」という基礎がなければ、その上に立つあらゆる研究が成り立たない。この基礎を形成することが旧石器時代研究者の努力の85%以上を占める。それがこの学問の宿命である。」(6.)

冒頭で、2009年に発掘されて2014年に考古誌が刊行された島根県砂原の「石器」について述べられている。
砂原の「石器」として示された2点について第1図のキャプションで「人工ではない」「人為ではない」とされている(5.)。
しかしあちら側の補論、例えば上峯 篤史2014「斑晶観察法による「前期旧石器」の再検討」『旧石器考古学』第79号については、本書で何の言及もない。全部ダメか、全部イイかだけではない、ある<もの>はいいが、ある<もの>はダメということもあるだろう。

本書では、こうしたこと(参照すべきことを参照しない)が多いような気がする。最近はやりの「土偶を読む」効果だろうか。
それとも、これも「訓練不足によるもの」なのだろうか。

島根県の砂原も最近目にすることがないが、山形県の富山も最近耳にすることがない(リンク記事参照。砂原は人為か自然かの議論、富山は前期旧石器か縄紋早期かの議論)。
富山は、「石器を見る」という基礎があるのかないのかを考える際に重要である。

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タグ:砂原 富山 砂川
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『北海道・アイヌモシㇼ -セトラー・コロニアリズムの150年-』 [全方位書評]

北海道・アイヌモシㇼ -セトラー・コロニアリズムの150年-『思想』第1184号(2022年12月号)岩波書店

まず「アイヌモシㇼ」の「ㇼ」(小さな「リ」)に戸惑う。
macOSやiOS15では、「アイヌ語キーボード」が実装されている。

「北海道新聞にはアイヌ関連の報道には必ず「民族」と表記する決まりがある。アイヌと呼び捨ては失礼ということらしい。例えば私が記事になるとすると「アイヌ民族のトンコリ奏者」となる。こんな大げさな文字が新聞に載るのは田舎で普通に暮らしている自分にはいささか居心地が悪い。「大和民族の歌手〇〇〇〇」とは普通書かないだろう。」(OKI「民族と呼ばれて」:5.)
 ⇒ ここにも力の不均衡が表れている。数の大小に基づく力の大小。不可視の「大」と「不可視の大」を成立させるために可視化される「小」。わざわざ「女性パイロット」とか「男性客室乗務員」とする意識と同じか。

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ハージ2022『オルター・ポリティクス』 [全方位書評]

ガッサン・ハージ(塩原 良和・川端 浩平 監訳、前川 真裕子・稲津 秀樹・高橋 進之介 訳)2022『オルター・ポリティクス -批判的人類学とラディカルな想像力-』明石書店(Ghassan Hage 2015 "ALTER-POLITICS" Melbourne University Publishing.)

「「批判的思考」を定義する方法はたくさんあるものの、最初に明確にしなければならないのは、批判的(ラディカル)思考と「急進派(ラディカル)」思考は違うということだ。「批判的」であることは、たとえばラディカルな政治とのあいだに明らかな親和性があったとしても、思考の知的資産であり、政治的な資産ではない。社会学者や人類学者は、自分たちを政治的な意味において明確に位置づけるかもしれないし、そうしないかもしれない。同様に、自分たちの政治的志向に基づいて研究を方向づけるかもしれないし、そうしないかもしれない。しかし批判的思考に関与するときには、既存の社会秩序におけるルーティン化されたしがらみを打破する政治に関わらざるをえない。それにもかかわらず、批判的であること本来の知的性質を強調することは、依然として重要である。」(90.)

「ラディカル」という英単語には、二つの意味がある。
前稿で触れた『土偶を読むを読む』(望月編2023)も、その批判対象である『土偶を読む』(竹倉2022)も、ある意味で同じように「批判的」である。前者は後者の内容・姿勢を批判し、後者は自らの説を受け入れない旧態依然たる「日本考古学」を批判する。
しかし、その「批判」には大きな違いがある。
過ちを放置することは許されないというやむにやまれぬ思いからなされる「批判」か、それとも自らを売り出さんがための「批判」かという違いである。
こうした私の想定が合っているかそれとも的外れなのかについては、批判を受けた後に示される対応の様態を見れば明らかになる。「読むを読む」側から「読む」側に対して要請された公開討論会の開催について、現時点で何の反応もないようである。

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望月編2023『土偶を読むを読む』 [全方位書評]

望月 昭秀(縄文ZINE)編 2023『土偶を読むを読む』文学通信

同じような構図の「「石棒から読む」を読む」という文章を記した者として無関心ではいられない。

「『土偶を読む』で目から鱗を落としてしまった人は、もう一度その落とした鱗を探してもらうことになる。実は肯定的なことはこの先とても少ない。それでもかすんだ目をこすり、本書を読み進めてほしい。(中略)
『土偶を読む』の検証は、たとえれば雪かきに近い作業だ。本書を読み終える頃には少しだけその道が歩きやすくなっていることを願う。
雪かきは重労働だ。しかし誰かがやらねばならない。」(望月「はじめに」4-5.)

「鱗を落としてしまった人」として名前が挙げられているのは、「養老孟司氏、鹿島茂氏、いとうせいこう氏、中島岳志氏、松岡正剛氏などなど」(3.)そしてサントリー学芸賞2021年度社会・風俗部門の選考委員各氏である。
つくづく専門外の論評には、慎重になるべきと教えられる。
落とした鱗を探す誠実さを持った論者は、どれだけ居るだろうか。

他者に対する批判作業は重労働である、という言葉も頷ける。
集中部区分、母岩(個体)別資料、砂川三類型、富山、緑川東、<遺跡>問題、考古時間、部材、考古誌批評…
考えてみれば、第2考古学は日々「雪かき」しているようなものだ。
何の報酬もないが、道を歩く人が少しでも歩きやすくなるようにという思いだけを支えにして。

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松島2022『学知の帝国主義』 [全方位書評]

松島 泰勝2022『学知の帝国主義 -琉球人骨問題から考える近代日本のアジア認識-』明石書店

「本書は、学知の帝国主義によって植民地支配され、差別され、死においやられ、今でも軍事基地の犠牲となり、先祖の遺骨供養を拒否された琉球人からの、「告発の書」である。また京都大学、日本人類学会、沖縄県教育委員会との「対話と和解」をもとめた「論争の書」でもある。問題提起、批判にたいして沈黙をまもり、時間の経過による「問題の忘却」をまつのではなく、たがいに議論(対話)をすることで、問題の本質にせまり、その解決(和解)にいたる道を探求する過程そのものが「学問の王道」であるとかんがえる。ギリシャのソクラテスの「対話」から学問がはじまったことを想起するなら、現代社会における学術の社会的意味をといなおす作業はけっして無駄ではないとかんがえる。」(5.)

考古学という学問の社会的な意味、すなわちどのような役割があり、どのような人びとのためになされているのかという極めて根源的でかつ現実的な意味が問われている。

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西川1984『ラッパ手の最後』 [全方位書評]

西川 宏1984『ラッパ手の最後 -戦争のなかの民衆-』青木書店

やはり「タダモノ」ではなかった!

私の手元にある著者の論文リスト。
1965「朝鮮文化財は誰のものか」『考古学研究』第12巻 第2号:2-7.
1966「在日朝鮮文化財と日本人の責務」『歴史地理教育』第116号:1-10.【2018-12-01】
1968「帝国主義下の朝鮮考古学 -はたして政策に密着しなかったか-」『朝鮮研究』第75号:37-43.
1970「日本帝国主義下における朝鮮考古学の形成」『朝鮮史研究会論文集』第7号:94-116.【2010-02-28】
1970「日本考古学のなかの帝国主義的思想 -キム・ソクヒョン『初期朝日関係研究』の提起するもの-」『考古学研究』第16巻 第3号:2-6.
1970「年表 日本帝国主義下の朝鮮考古学(第1版)」『考古学研究』第16巻 第4号:13-21.
1988「鬼神の業と国体明徴 -永山卯三郎の考古学-」『考古学と関連科学 -鎌木義昌先生古稀記念論集-』:325-331.
1995「戦跡考古学の発展のために」『展望 考古学』考古学研究会40周年記念論集:332-338.
1996「わが国の軍隊は空襲から市民を守ったか -いわゆる高射砲陣地の考古学的検討から-」『考古学研究』第43巻 第3号:4-12.
2000「戦跡考古学の軌跡と現状」『大塚初重先生頌寿記念考古学論集』東京堂出版:978-991.

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溝口2022『社会考古学講義』 [全方位書評]

溝口 孝司 2022『社会考古学講義 -コミュニケーションを分析最小基本単位とする考古学の再編-』同成社

「考古学的研究の対象としての人間の思考と行動の「痕跡」がなぜそのようになったのか? そこに見出される「パターン」はなぜ産み出され、維持され、変化したのか? 私たちは、なぜそれらに私たちがやっているようなやり方で意味づけをし、説明し、理解するのか? そうすることは、私たちが生きてゆくことに対してどのような意味を持つのか?」(i.)

こうした問いに対して、筆者は「社会考古学」という名前を与えているが、正に私の「第2考古学」と見事に重なり合っている。
違うのは、力点の置き方が研究対象である彼ら/彼女らという「過去」にあるのか、それとも研究者である私たちという「現在」にあるのかというぐらいである。

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東村2021『近現代北海道とアイヌ民族ー和人関係の諸相』 [全方位書評]

東村 岳史2021『近現代北海道とアイヌ民族ー和人関係の諸相』三元社

「アイヌ民族の存在を否定する論者は、ほぼ全員といっていいほど「民族」の客観的定義は存在しない、アイヌを勝手に自称する人間がいるだけだと主張する。そこには自分の民族帰属の問題がきれいさっぱりと欠落し、民族呼称の問題が名付ける側と名乗る側の関係によることが顧みられていない。民族の存在を否定することは、当然権利の否定でもある。」(231.)

「アイヌ民族の存在を否定する論者」は、必然的に「日本民族の存在も否定」しなければならなくなる。
「混血によって純粋なアイヌ民族が減少している」とする論者は、必然的に「混血によって純粋な日本民族が減少している」としなければならなくなる。
当たり前である。
「アイヌ問題」は、必然的に「日本人(和人)問題」である。
筆者に一貫しているのは、こうした自省的な「和人の当事者性」意識である。

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三木2019『遺骨返還と民族自決権』 [全方位書評]

三木 ひかる2019『遺骨返還と民族自決権 -侵略・戦争責任の徹底追及を-』「北方領土の日」反対!「アイヌ新法」実現!全国実行委員会

かねてより注目していた筆者が、2017年から19年に書かれた4本の文章を再録したものである。

「近代以来、日本天皇制国家はアイヌモシリ侵略、植民地支配のために、アイヌ民族の存在とその権利を一切否定してきた。1930年代以降のファシズム期には民族絶滅政策の下、優生学的(生物学主義的)同化を推し進め、膨大な遺骨を収集して民族「衰亡」の「研究材料」にした。全国の大学が略奪したアイヌ民族の遺骨は、こうした日本近代以来の侵略と戦争の犠牲者の遺骨であり、その返還は民族自決権の重要な内容をなすものである。天皇制国家の侵略戦争・植民地支配こそが遺骨略奪と先住権・自決権否定を生み出した最大の要因である。しかもそれは今日に至るまで日本国家・社会、大学を貫通し、今現在の帝国主義的支配を形作っている。
したがってアイヌ民族の遺骨返還と先住権・自決権獲得の闘いを前進させるためには、侵略戦争、植民地支配の徹底した暴露と追及が必要である。しかし日本労働者人民のこの戦いの弱さ、鈍感さがあらゆる民族問題の解決を困難にしている。」(1.)

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石原2020『<沈黙>の自伝的民族誌』 [全方位書評]

石原 真衣 2020『<沈黙>の自伝的民族誌 -サイレント・アイヌの痛みと救済の物語-』北海道大学出版会

ある人から「いいよ」と勧められて読んだが、良かった。

「遺骨たちは、「私」をつかまえて、離さない。そして、叫び続ける!
「忘れるな!」。「沈黙から言葉を紡げ!」。
「そして癒すのだ!」。「癒すのだ!」。「癒すのだ!」。
遺骨たちの叫びは、日毎に大きくなる。朝も、昼も、夕も、夢のなかでも、希望のときも、絶望のときも。私は、とうとう、遺骨たちの叫びから逃れられなくなる。歴史が身体に刻印されていない私が、物語を取り戻すためには、手がかりが必要だった。その手がかりとは、まぎれもなく、私の「痛み」だった。そして、それは叫び続ける遺骨たちの「痛み」でもあった。」(4.)

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