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『中華民国よりの掠奪文化財総目録』 [全方位書評]

外務省特殊財産局 訳 1949*『中華民国よりの掠奪文化財総目録』(中華民国政府教育部 1947あるいは1948*『中国戦時文物損失数量及估価目録』、1991「十五年戦争重要文献シリーズ 第3集」として不二出版より復刻)* 原書および訳本の刊行年は未だに確定していない。

「凡例
一、本目録所載の損失の基礎材料は本会の各区各省事務所が実地調査により得たもの及び公私の機関が個人が申請登記したものに付いて本会に於て厳格に審査した文物損失である。文物に属さないもの及び文物であっても証拠の乏しいものは審査の上、原送付者又は申請人に返戻し或は教育部統計処及び行政院賠償委員会に転送した。
ニ、本目録所載の損失見積価格は、本会が文物専門家及び書籍・骨董業者を招聘して協議決定したもので、何れも表失者の申出価格よりも多大の削減を加えられおり、且行政院の指示に従い各見積価格は戦前の標準に依った。
三、本会は文物の品名及び価値は各々異なり一々列記するは煩瑣に堪えないから、本目録には単に文物の類別及び損失見積価格を地域別に列記して査閲と統計に便ならしめた。
四、本目録は本会の文物損失登記処理弁法第四条に依り日本に賠償を命ずる様、政府に申請するものである。」(適宜言葉を補った)

前回記事「りやく奪財産関係件名一覧」の1949年2月8日に発せられた項目「九八」GHQ/SCAP第386号に添付された資料が本目録である。
「日本考古学」にとって重要なのは、冒頭の「A 副本一 公(古物)」の箇所である。

ニニ、石獅、遼寧省海城縣三覚寺(引用者:三学寺の誤記)甲午の役、日本軍海城縣陥攻略時掠奪
ニ五、羊頭窪先史居住址調査 1937年調査 資料は日本京都帝大文学部考古学教室にあり、同学、東亜考古学会出版「羊頭窪」書中を参照
ニ六、顧郷屯旧石文化遺蹟調査 1933年調査 資料は現在日本岩波書店出版の「満蒙学術調査団報告書」六冊中にあり
ニ七、熱河省新石器文化調査 1937年調査 同前
ニ八、紅山後石銅過渡期古墓住址調査 1934年調査 資料の一部は京都帝大考古学教室東亜考古学会出版の「紅山後」の中にあり
ニ九、間島古蹟調査 1937年調査 資料は京城帝大文学部文教部古蹟保存協会出版「間島省古蹟調査報告書」にあり
三〇、熱河省湾平附近古蹟調査 1937年調査 資料は東京帝大にあり、東亜考古学会刊行「熱河省湾平附近の遺蹟」参照
三一、延吉小営子新石古墓調査 1937年 資料の一部は朝鮮京城帝大法文学部旧満洲国文教部古蹟保存協会『延吉小営子遺蹟調査報告書』
三ニ、遼永慶陵調査 1920年 資料は京都帝大文学部考古学教室にあり、同所の田村實造に交渉返還を依頼す
三三、吉林市附近古蹟調査 1940年 資料は京城帝大法文学部にあり
三四、撫順縣高句麗新城調査 1940年 資料は東京帝大文学部考古学教室にあり
三五、遼陽市漢墓調査 判読不可 資料は東大文学部考古学教室にあり、責任者駒井和愛に返還を請う
三六、旅順営城子積石古墓調査 資料の一部は東大、藤田亮策にあり
三七、遼陽市壁画古墓調査 1944年 資料は東京帝大文学部考古学教室報告書に原稿あり、同学駒井和愛に返還引渡を請う
三八、琿春半拉城(渤海東京龍泉府址)調査 1942年 資料は東大文学部考古学教室にあり、東大駒井和愛に返還引渡を請う
三九、琿春半拉城(渤海東京龍泉府址)調査 1942年 同前
四〇、遼陽市林産化学會社附近壁画漢墓調査 1943年 資料の明器部分は東京帝大文学部考古学教室にあり、駒井和愛に交渉を請う
四一、遼祖州城址調査 1943年 資料は東方文化学院島田正郎宅にあり、又報告書原稿も一緒に返還のこと
四ニ、和龍縣西古城子(渤海中京縣徳府址)調査 1945年 資料は京大にあり、鳥山喜一に交渉返還を請う

本書については、特に図書を中心とした考察がなされている(鞆谷 純一2010「『中華民国よりの掠奪文化財総目録』に対する日本政府の主張」『図書館界』第62巻 第4号:278-293.)。
しかし文化財については、殆ど未着手である。
この時期における返還作業において中心的な役割を果たしたと思われる「中国文化財委員会」についても6名のメンバーのうち氏名が明らかになっているのは4名のみ(長澤 規矩也、米澤 嘉圃、駒井 和愛、杉村 勇造)で、この委員会なるものがどのような経緯で設置されて、どういった目的を持った組織なのか、所管はどこなのか、いったいいつからいつまで、どのような活動を行ったのか、殆どが不明である(鞆谷2010:291.)。

今回『中華民国よりの掠奪文化財総目録』から引用した発掘調査による出土資料についても、実際に収奪された文化財のほんの一部であることは明らかである。
東亜考古学会の発掘調査にしても刊行された甲種6冊・乙種7冊(「対馬」を除く)のうち目録に掲載されているのは、二五「羊頭窪」(乙種-3)、二八「紅山後」(甲種-6)、三六「営城子」(甲種-4)のわずか3件のみである。なぜ三八・三九「琿春半拉城」があって、甲種-5「東京城」がないのか不明である。

東亜考古学会の調査報告資料13件のうち、どれほどが日本に持ち込まれて、どれほどが返還されて、現在も日本に存在するのはどれほどで、それらが現在どこにどのような状態で残存しているのか、今からでもしっかりと調査すべきである。

「調査の道義的評価についてはひとまずおき、…」(向井 佑介2017「日本考古学の100年と中国考古学研究 -20世紀前半の調査資料にもとづく新たな研究視角-」『中国考古学』第17号:6.)などと悠長なことは言っていられないのではないか。
そもそも「調査の道義的評価」は、「ひとまずおく」ことができるようなものなのか。

日本中国考古学会という組織あるいは「日本考古学の100年と中国考古学研究」は、「中国文化財委員会」というかつて国が設置したと思われる公的組織の存在を無視し続けることができるのだろうか。


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