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遺跡発掘調査発表会2023 [研究集会]

東京都埋蔵文化財センター2023 遺跡発掘調査発表会

日時:2024年3月20日(水)13:30~15:30
場所:東京都立埋蔵文化財調査センター 会議室
主催:公益財団法人 東京都教育支援機構 東京都埋蔵文化財センター

【口頭発表】
1.北区 道合遺跡  (鈴木 啓介)  2.府中市 武蔵台遺跡(間 直一郎)
3.文京区 原町西遺跡(五十嵐 彰)  4.台東区 元浅草遺跡(山崎 太郎)
【誌上発表】
1.世田谷区 殿竹遺跡(及川 良彦)  2.世田谷区 野毛遺跡(堀 恭介)

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近・現代遺跡と東京の考古学 [研究集会]

近・現代遺跡と東京の考古学 東京大学埋蔵文化財調査室 調査研究プロジェクト9

日時:2024年3月17日 10:00~17:00
場所:東京大学 本郷地区 国際学術総合研究棟 文学部3番大教室
主催:東京大学埋蔵文化財調査室・東京大学考古学研究室・東京考古談話会

「東京都内の埋蔵文化財調査においても、近代・現代の遺跡の調査・研究例が増加しています。近・現代遺跡を対象とした考古学研究は地域史ばかりでなく、産業史や交通史、災害史といった学際的な視点からも重要な分野であるものの、わが国の埋蔵文化財保護行政における位置付けは、「特に重要なものを対象とすることができる」(文化庁通達)というように、保護されているとはいえない状況であり、学問的にも依然として曖昧なままになっています。そこで第9回調査研究プロジェクトでは、東京考古談話会との共催により、東京都内の埋蔵文化財として、近・現代遺跡とどのように対峙し、保存・活用していくかについて考えてみたいと思います。」(案内チラシの「開催の趣旨」)

1.近・現代遺跡と東京の考古学 -主旨説明- (追川 吉生)
2.近・現代遺物の編年(黒尾 和久・梶木 理央)
3.目黒区の近代遺跡調査の取り組み(武田 浩司)
4.近・現代遺跡の調査の意義について -高輪築堤跡等の調査事例から-(斉藤 進)
5.三鷹市・調布市下原・富士見町遺跡における近・現代の調査(野口 淳・大里 重人)
6.小石川植物園旧温室遺構の保存と活用(成瀬 晃司)
7.シンポジウム 近・現代遺跡と東京の考古学

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津嶋2023「盛岡城遠曲輪跡第22・23次調査出土の近現代ガラス瓶」 [論文時評]

津嶋 知弘2023「盛岡城遠曲輪跡第22・23次調査出土の近現代ガラス瓶」『盛岡市遺跡の学び館 学芸レポート』第5号:1-16.

「本稿は、近現代遺物として特徴的なガラス瓶に着目して岩手県内の発掘調査報告書掲載状況と、盛岡市教育委員会(遺跡の学び館)の取り組みを紹介した上で、筆者が担当した盛岡城遠曲輪跡第22・23次調査の発掘報告書(盛岡市教育委員会ほか2022)で別稿報告とした近現代ガラス瓶と、その関連資料の紹介を行うものである。」(1.)

2000年から2021年までの22年間で岩手県内で刊行された25冊の考古誌に498点の近現代ガラス瓶が掲載されているという。このうち293点(59%)は盛岡市の筆者が担当された調査報告であり、筆者が岩手における近現代報告をリードしている状況が窺える。

近年は、ビール瓶に特化した研究報告もなされている(津嶋2024「近代のビール瓶 -盛岡市内出土・採集資料と市場流通資料の事例-」『盛岡市遺跡の学び館 学芸レポート』第7号:1-32.)。

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『東京の遺跡』第127号 [近現代考古学]

東京考古談話会(黒尾 和久 編集)2024年2月25日発行『東京の遺跡』第127号:1-8.

・東京考古談話会シンポジウム2024「近・現代遺跡と東京の考古学」(追川 吉生:1.)
・なぜ「近・現代遺物の編年」なのか(梶木 理央:3.)
・三田小山町再開発地点発掘調査で発見された近代の痕跡(月岡 千栄:4-5.)
・旧豊多摩監獄表門における埋蔵文化財調査について(藤掛 泰尚:6.)
・清瀬市中央公園(旧跡清瀬病院)の確認調査(東野 豊秋:7.)
・「東京時代」の考古学宣言(黒尾 和久:8.)

来る2024年3月17日に開催される研究集会「近・現代遺跡と東京の考古学」に向けての近現代特集号である。
近現代を主題とする研究集会もさることながら、会員の連絡誌とはいえ近現代の特集号が編まれるということも近年において画期的である。

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矢部 史郎・山の手 緑1999「運動にはプランはない」 [論文時評]

矢部 史郎・山の手 緑1999「運動にはプランはない」『現代思想』第27巻 第12号:209-213.(2001『無産大衆神髄』河出書房新社に「グローバリゼーション」と題して収録)

「例えば私たちがある問題を提起したとしよう。すると市民の誰かが必ず次のような質問をする。「ではどうしたらいいのか。」私たちは「運動しよう」と言う。しかし「運動しよう」では回答にならない。問われているのは計画なのだ。運動には計画がなく、プランがない。プランを拒否していると言ってもいい。しかし、市民にとって重要なのはプランが提示されることだ。ある人はそれを「代案」と言い「現実味」と言い「オルタナティブ」と言い、ようするにプランが欲しくてしょうがないのだ。」(213.)

テレビのコメンテーターが「野党は批判ばかりで代案を出さない」としたり顔で述べているのも同類である。批判されている事柄自体は否定できないので、そして自分も代案を示すことができないので、せめておのれの立ち位置ぐらいは確保しようと相手に責任を押し付けている訳である。

私も同じような経験をしたことがある。
旧石器学界で有名な定説について批判的な発表をした時のことである。これまた有名な碩学と少し話しをしたのだが、「五十嵐クンの言うことはもっともで、よく分かる。しかしそれならばどうしたいのかを言わないとダメだよ」と。
要するにその人にとっては問題を指摘するだけでは、ダメなのだ。指摘されている問題を受け止めて、自らを含めて全体で問題を解決しようと努めるのではなく、あくまでも問題提起者・批判者に回答を要求して、現状を維持しつつ自分は何もしないのだ。

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