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2024『道合遺跡 赤羽上ノ台遺跡』第3分冊 [考古誌批評]

2024・3『北区 道合遺跡 赤羽上ノ台遺跡 -赤羽台団地(第Ⅳ期)建替事業に伴う埋蔵文化財発掘調査-』第3分冊、東京都埋蔵文化財センター調査報告 第381集

「本遺跡が位置する赤羽台団地一帯は、旧日本陸軍被服本廠が置かれた場所で、都合9回の調査において、工場・倉庫などの建物基礎、防空退避壕、線路跡などや工場製品・当時の生活什器類など多数の遺構・遺物が検出された。本報告では、過去の調査成果を含め、明らかになった被服本廠の施設、出土遺物についてまとめてみたい。」(1.)

「道合遺跡」あるいは「赤羽上ノ台遺跡」については、1994年に北区教育委員会によって第1次調査がなされて以来、都埋文によって以下の7回の調査が積み重ねられてきた。

2010『道合遺跡』都埋文調査報告 第247集(第2次調査)
2013『道合遺跡』都埋文調査報告 第280集(第3次調査)
2015『道合遺跡 赤羽上ノ台遺跡』都埋文調査報告 第303集(第4次調査)
2016『道合遺跡』都埋文調査報告 第307集(第5次調査)
2017『道合遺跡』都埋文調査報告 第317集(第6次調査)
2017『道合遺跡 赤羽上ノ台遺跡』都埋文調査報告 第318集(第7次調査)
2019『道合遺跡』都埋文調査報告 第339集(第8次調査)
そして今回の2024『道合遺跡 赤羽上ノ台遺跡』都埋文調査報告 第381集(第9次調査)となるわけである。

都埋文調査だけで2006年から2021年まで断続的に15年間かけて調査がなされ、調査面積は11万㎡余りに及ぶ。

「道合遺跡」あるいは「赤羽ノ台遺跡」の報告では、2010年以来「旧日本陸軍被服本廠」に関しては、「付編」として縄文・弥生・古代・中世・近世とは別扱いとするスタイルが踏襲されている。今回は第9次調査における近現代資料の報告に加えて15年に及ぶ成果を総括する意味もあり、「第3分冊」丸ごと1冊373頁が近現代に費やされており、既に「付編」という意味合いを大きく踏み出ている。
第3分冊では、簡単な目次が示されるのみなので、本文における小見出しを拾い上げる形でその全容を紹介しよう。

Ⅶ 付編 -旧日本陸軍被服本廠および近代遺構に関して-
1 塹壕について
 はじめに(1.) 天覧演習について(2.) 小結(5.)
2 被服本廠について(12.)
 A 検出遺構
 ・建物 倉庫建物(12.) 還送品整理場(13.) 梱包場(14.) 掘立柱建物 不明建物 第3貯水池 引き込み線、水・油タンク(15.) トロッコ線路跡(17.) 防空退避壕 
 ・土坑(35.)
 B 遺物
 ・陶磁器類 湯呑茶碗・蓋 ・茶碗(35.) ・茶碗蓋(37.) 飯碗(37.) 丼・丼蓋 (38.)・丼 ・丼蓋 碗(38.) 皿(39.) 鉢 蓋物・蓋 小坏 土瓶・急須類(39.) カップ・ソーサー類(40.) 燗徳利・徳利 灰皿 飲料・化粧品瓶 糊容器(41.) インクスタンド 墨池 文鎮 醤油皿 煙管 理化学用品 衛生容器 硫酸瓶 碍子
 軍用食器について(42.) 裏印について 生産者別標示記号(統制番号)について
 ・ガラス製品(48.) 飲料瓶 ビール瓶 清酒・焼酎瓶(49.) 清涼飲料水瓶 ジュース・シロップ瓶(50.) 牛乳 乳酸菌飲料瓶(51.) 調味料・食品瓶 醤油瓶 ソース瓶 ケチャップ瓶 マヨネーズ瓶(52.) 化学調味料瓶 食品瓶 薬瓶(53.) 化粧品瓶(54.) 文具瓶 靴墨瓶(55.) 理化学用品 その他
 化学製品(56.) 皮革製品 繊維製品 ゴム製品(57.) 金属製品
 煉瓦(61.) 普通煉瓦 耐火煉瓦(161.) 瓦
 C 被服本廠の概要(161.)
 ・沿革 ・業務(165.) ・被服本廠の規模・施設(167.) 建物変遷 構造(184.) 養成(教育)部建物(西側倉庫群) ・25~34号倉庫・倉庫事務室・工員休憩所・人夫休憩所・ホーム(185.) 製造部建物 ・製造部工場・工員休憩所・荷物整理場・毛皮焼印所(186.) 南側補給部建物 ・仮倉庫・工員休憩所・屑物整理場・木工場 北側製造部建物(187.) ・工員休憩所・電工作業場・炊事場・皺展工場・材料置場・屑物整理場 北側本部棟周囲建物 ・第三食堂・運送人詰所・商人詰所・憲兵詰所・工員休憩所・検査場
審査部周囲建物 ・第ニ食堂・医務科・自動車庫(187.) 
南通用門附近建物 ・第ニ保育所・工員休憩所・南門守衛詰所
中央倉庫群 ・検査場・補修工場・仮倉庫(188.)
厠(188.)
 D 出土遺物概観(集成)(201.)
1 陶磁器類 湯呑碗・蓋 飯碗 丼・蓋 碗 皿 鉢 徳利 猪口 土瓶・急須 羽釜・土鍋 代用陶器
2 ガラス瓶(204.) ビール瓶 洋酒・ワイン瓶(205.) 清酒・焼酎瓶 清涼飲料瓶 ジュース・シロップ瓶(206.) 牛乳瓶(207.) 乳酸菌飲料瓶他 調味料・食品瓶 薬瓶(209.) 化粧品瓶(211.) 文具類その他(213.) 靴墨瓶(215.) 消火弾(216.)
3 化学製品(216.)
4 皮革・ゴム製品(218.)
5 金属製品
6 煉瓦(219.)

「被服本廠に関しては、検出遺構・出土遺物の検討から、建物の変遷などの分析を行った。関連する資料(測量・実測図、写真、文献など)はほぼ網羅したものと考えるが、見落としなどもあろうかと思われる。今回の調査までに集積した発掘調査資料から、概ね被服本廠の全容は把握されたと考える。本地区の調査は、武蔵文化財研究所が実施している赤羽上ノ台遺跡北側部分をもって概ね終了となる。今後は、その成果を含めた収集資料の再分析を行い、被服本廠の歴史(終戦後の進駐軍時代を含む)の細部を明らかにするとともに、当該地区を含む地域の歴史などとの関連性をより明確に捉え、被服本廠の歴史的位置づけを地域発展史の中で紐解く事が肝要と考える。」(221.)

陸軍演習(2-12.)については、かつて八王子の隔離病舎跡地から出土した軍杯について調べる過程で1899年あるいは1914年の大阪における事例を知り、考古学の可能性に驚いた記憶がある(西川 寿勝2009「賜杯考(補遺編 -大阪大戦争-)」『大阪文化財研究』第34号:75-110.)。
認識票(58-60.)については、かつて大阪での出土事例について言及したことがあった。

大阪は、近現代に関しても先進地域である。
例えば1897年に枚方市に設置された「禁野(きんや)火薬庫」跡地の調査については、『禁野本町遺跡』2006年(大阪府文化財センター調査報告 第140集)および2012年(同 第228集)として大部の考古誌が刊行されているが、その広報についても「禁野火薬庫の調査」(2007年『カルチュア はっとり』第10号)、「禁野本町遺跡 -近代禁野火薬庫-の発掘調査」(2015年)として組織として積極的に公開されている。
東と西で近現代に対する姿勢に明瞭な温度差が見て取れる。

最後に<遺跡>問題、特に遺跡名称問題について述べるならば、北区赤羽台に広がる旧日本陸軍被服本廠について、その敷地の西側から検出された遺構群は「道合遺跡」として、東側から検出された遺構群は「赤羽上ノ台遺跡」として、両方について述べる時は「道合遺跡 赤羽上ノ台遺跡」として記載されているが、考古学的にほとんど意味をなさないということに大方の賛同は得られるのではないだろうか。同じ施設なのになぜ異なった<遺跡>名称が用いられているのですか、と市民から問われた時に、どのように答えるのだろうか。
旧日本陸軍被服本廠について述べるのなら、「道合赤羽上ノ台遺跡」とでもしないと整合性ある記載はできないのではないか。


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