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津嶋2023「盛岡城遠曲輪跡第22・23次調査出土の近現代ガラス瓶」 [論文時評]

津嶋 知弘2023「盛岡城遠曲輪跡第22・23次調査出土の近現代ガラス瓶」『盛岡市遺跡の学び館 学芸レポート』第5号:1-16.

「本稿は、近現代遺物として特徴的なガラス瓶に着目して岩手県内の発掘調査報告書掲載状況と、盛岡市教育委員会(遺跡の学び館)の取り組みを紹介した上で、筆者が担当した盛岡城遠曲輪跡第22・23次調査の発掘報告書(盛岡市教育委員会ほか2022)で別稿報告とした近現代ガラス瓶と、その関連資料の紹介を行うものである。」(1.)

2000年から2021年までの22年間で岩手県内で刊行された25冊の考古誌に498点の近現代ガラス瓶が掲載されているという。このうち293点(59%)は盛岡市の筆者が担当された調査報告であり、筆者が岩手における近現代報告をリードしている状況が窺える。

近年は、ビール瓶に特化した研究報告もなされている(津嶋2024「近代のビール瓶 -盛岡市内出土・採集資料と市場流通資料の事例-」『盛岡市遺跡の学び館 学芸レポート』第7号:1-32.)。

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矢部 史郎・山の手 緑1999「運動にはプランはない」 [論文時評]

矢部 史郎・山の手 緑1999「運動にはプランはない」『現代思想』第27巻 第12号:209-213.(2001『無産大衆神髄』河出書房新社に「グローバリゼーション」と題して収録)

「例えば私たちがある問題を提起したとしよう。すると市民の誰かが必ず次のような質問をする。「ではどうしたらいいのか。」私たちは「運動しよう」と言う。しかし「運動しよう」では回答にならない。問われているのは計画なのだ。運動には計画がなく、プランがない。プランを拒否していると言ってもいい。しかし、市民にとって重要なのはプランが提示されることだ。ある人はそれを「代案」と言い「現実味」と言い「オルタナティブ」と言い、ようするにプランが欲しくてしょうがないのだ。」(213.)

テレビのコメンテーターが「野党は批判ばかりで代案を出さない」としたり顔で述べているのも同類である。批判されている事柄自体は否定できないので、そして自分も代案を示すことができないので、せめておのれの立ち位置ぐらいは確保しようと相手に責任を押し付けている訳である。

私も同じような経験をしたことがある。
旧石器学界で有名な定説について批判的な発表をした時のことである。これまた有名な碩学と少し話しをしたのだが、「五十嵐クンの言うことはもっともで、よく分かる。しかしそれならばどうしたいのかを言わないとダメだよ」と。
要するにその人にとっては問題を指摘するだけでは、ダメなのだ。指摘されている問題を受け止めて、自らを含めて全体で問題を解決しようと努めるのではなく、あくまでも問題提起者・批判者に回答を要求して、現状を維持しつつ自分は何もしないのだ。

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太田2023「「王様」だって、自国の過去の歴史を謝罪する?」 [論文時評]

太田 昌国 2023「「王様」だって、自国の過去の歴史を謝罪する?」ウェブ・マガジン『反天ジャーナル -天皇制を知る・考える-』2023年9月号

かねてより刮目する表現者の最新作である。

「…2020年10月、オランダの人権活動家や博物館の専門家から成る委員会は、旧植民地の住民の同意のない文化財の持ち去りは「歴史的不正義」であり、原産国に無条件で返還すべきだとする勧告書を発表した。
同国の国立世界文化圏博物館所蔵品43万6000点のうち、ほぼ半数が旧植民地由来のものであり、インドネシア関連の所蔵品は17万4000点に上ることも明らかになった。勧告書を出した委員会の議長は、南米スリナム(オランダからの独立は1975年)出身の人権活動家、リリアン・ゴンサルベス=ホ・カン・ユーといい、中国系の末裔の女性だと知れる。委員の多くが旧植民地にルーツを持つオランダ人だった。旧植民地出身者が、過去の歴史を精査する委員会の要職に就けること自体が、日本の現実と比べた場合に、オランダ社会の成熟度を示している。」

「日本の現実」例えば内閣官房アイヌ総合政策室が設置する「アイヌ政策推進会議」の構成メンバーにアイヌ民族の方はどれほどおられるのだろうか。

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江上1949「考古学」 [論文時評]

江上 波夫 1949「考古学」『日本の人文科学 -回顧と展望-』人文科学委員会編集(東京都千代田区霞が関 文部省内):98-105.

「昭和二十三年秋、日本の人文科学界は、米國人文科学顧問團の来朝を迎えた。この顧問團は、日本における人文科学研究の過去および現状を検討し、今後の研究組織や研究方向について日本の人文科学者と討議・懇談を重ね、その結果にもとづき、民間情報教育局を通じて総司令部に意見を具申するという任務を帯びていたのである。
この討議が熟しつつあつた同年の三月、連合軍総司令部民間情報教育部は、文部省と協議の上、顧問團の仕事に協力すべき日本側委員の人選を、当時、日本学術会議の構想を練つていた学術体制刷新委員会に依嘱した。学術体制刷新委員会の運営委員会は、その依嘱にもとづいて人選を行い、総会の承認を得た上で民間情報教育部に答申し、さらに、それに若干の追加を行つた結果、米國人文科学顧問團日本側委員会の成立を見た。」(「序言」米國人文科学顧問團日本側委員会:1.)

「…各執筆者は、できるだけ客観的にその専門に関する概観を行うように協定したのではあるけれども、過去の主要な動向や業績の記述、これまでの研究態度について反省される欠陥の指摘、将来に対する展望等において、大なり小なり執筆者自身の立場や見解が介入していることは、まぬかれがたいところである。それらの点は、今後、全國学界の批判や協力を仰いで、訂正・増補を加える機会を得たいと考えている。」(同:5.)

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平野2022「セトラーコロニアルな翻訳」 [論文時評]

平野 克弥 2022「セトラーコロニアルな翻訳 -「文明化」作用とアイヌの声-」『ポストコロニアル研究の遺産 -翻訳不可能なものを翻訳する-』人文書院

平野2018平野2022に続く3本目である。

「この「開拓」という認識を成り立たせていたものは、日本を含めた近代世界を形成する上で決定的な力をもった二つのイデオロギー、つまり進歩史観と民族主義であった。前者は、人間社会は「文明化」という普遍的な進歩の軌道を漸進的に辿るものであり、そこから逸脱する社会は自然淘汰されて行く運命にあるという世界観を提示し、後者は、そのような進歩の岐路を歩む主体は長年培われてきた文化的紐帯(言語、宗教、風俗、歴史)を体現する民族という共同体であり、民族こそが人々の歴史的存在をもっとも本質的に言い表すカテゴリーなのだとする立場である。」(213.)

これは、近代世界をどのように認識するのか、その歴史認識の根本的な枠組みの指摘である。
「開拓」を象徴している「北海道百年記念塔」の解体に反対していた人たちのみならず、その他の多くの人たち、すなわち解体に賛成していた人たちあるいはどちらかよく分からないという人たちも、こうした「進歩史観と民族主義」という「常識」についてはあまり疑問を抱いていないのではないか。
「文明化」以外の「進歩」もあり得るとすれば、「進歩史観」というよりは「文明化史観」としたほうが、より正確なような気もする。
日本の「民族主義(エスノセントリズム)」は、「国家主義(ナショナリズム)」と多くの部分で重なるだろう。

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山中2004「考古学における方法の問題」 [論文時評]

山中 一郎 2004「考古学における方法の問題」『郵政考古紀要』第35号:1-37.

「本論に論じられる「方法」とは、ひとつの科学(学問)の成立を基定する思考の進め方を言います。そしてすべての科学(学問)は必ず独自の「方法」をもつと考えます。
この「方法」の特性は、「系統性」と「普遍性」をもつことにあります。すなわち、その種の資料に対してであれば、あらゆる資料に適用できるという意味での「系統性」とともに、誰でもが同じ操作をすることができるという意味での「普遍性」を具備するところに、ひとつの「方法」が成立していることを認めようと考えます。この二つの特性こそが、考古学における作業の結果について、いわゆる「追試」を可能にさせると、考えることができます。」(1.)

極めて重要な問題が論じられている。
今まで何度も目を通していたのだが、今ひとつ踏み込んで取り上げることが出来なかった。それは、あくまでも一般論として眺めていたからで、自分が抱える諸問題に引き付けて考えてみたときに新たな容貌をもって迫ってきた。

筆者晩年の2002「ナショナル・アイデンティティと「日本考古学」」【2008-10-02】と2012「型式学から技術学へ」【2014-05-14】の間に位置する論考である。

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土井1989「第三世界の考古学は、世界の考古学変革のための新しい推進力たりうるか」 [論文時評]

土井 正興1989「第三世界の考古学は、世界の考古学変革のための新しい推進力たりうるか -ペドロ・パウロ・アブレウ・フナーリの論稿から-」『歴史評論』第474号:86-92.

「フナーリの論稿の目的は、ブラジルの考古学研究の具体的な個々の成果を要約することにあるのではなく、その考古学研究の水準の低さを自覚しつつ、研究の現実の主要な特徴、学問的訓練としての意味、そのイデオロギーとしての社会的役割を考察し、それが知的な革命的な道具として、第三世界の前途に、潜在的な新しい推進力として作用しうるか、その両者の関係を模索しようとするところにある。」(87.)

ある事情から手元にある所蔵誌を見直していて、見出した論考である。
1980年代後半にブラジル考古学に関する論考が『歴史評論』という雑誌に紹介されていた!
私を含めて殆どの人が気にも留めずに「スルー」していた。
しかしその提起する問題は、「日本考古学」において決して看過できるものではなかったはずである。

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藤森1965-68「考古学への想い」 [論文時評]

藤森 栄一 1965-68「考古学への想い」『信濃考古』(詳細な原典情報不明『藤森栄一全集 第15巻 考古学・考古学者』所収:17-30.)

晩年に記した10箇条の遺言である。
その10箇条とは、1.書いてみたいこと、2.掘ってみること、3.感じてみること、4.観察してみること、5.歩いてみること、6.遊んでみること、7.ケンカをしてみること、8.地味をみること、9.覗いてみること、10. 一度つけた灯を消さないこと、である。
いづれも「身に染みる」。

「とても、慎重に、いつまでも資料を眺め、あっためている人がいる。もちろん、それはそれでまことに学問的で結構である。しかし、資料は単独でおかれた場合、なんの役にも立たぬものである。いくつも、小さなつまらないような資料が、共通の場に提出され、組立てられるのでなければ価値を生じないのである。」(書いてみたいこと:17.)

私の身近にも、こうした人が居る。アイデアも感性も素晴らしい、材料も揃っている。しかし「あっためている」のである。

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タグ:研究姿勢
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東村2020「アイヌ民族をめぐる「多文化共生」とバイオ植民地主義」 [論文時評]

東村 岳史 2020「アイヌ民族をめぐる「多文化共生」とバイオ植民地主義 -組織的人体試料研究の「起源」と「学問の暴力」-」『多文化共生研究年報』第17号:27-36.

極めて重要な事柄が述べられている。

「本稿は近年のアイヌ政策に関する諸問題を包括的に扱うのではなく、その一部である学術的な問題について焦点を絞りたい。それはアイヌ民族の身体を試料として用いる研究の展開である。
アイヌ民族の人体試料に関わる重大な問題として、近年最も関心を集めているのが、研究用に蒐集され大学や博物館等に保管されている人骨である(植木2017;北大開示文書研究会編2016)。「アイヌ政策推進法」は、これらの遺骨のうち引き取り手がいないとされるものを北海道白老町に建設されている文化拠点施設「民族共生象徴空間」(通称「ウポポイ」)に集約し(2019年12月に約8割が移送済み、『北海道新聞』2019.12.20「アイヌ民族遺骨、9大学1287体移送、不特定分もウポポイ慰霊施設に集約」)、研究利用に供することを目しているため、アイヌや心ある和人(日本人)支援者、研究者等から多くの批判を浴びている。何人かのアイヌは返還訴訟を起こして元の場所への帰還を達成するためにたたかっているが、帰還が実現したのはごく一部にすぎず、問題解決には程遠い。
これ自体が重大な人権侵害であり、「学問の暴力」(植木2017)であるが、本稿が検討したいのは、遺骨と比べてもほとんど関心が集まらず、したがって議論もされていない、遺骨以外の人体試料である。研究者の人体試料として利用されてきたものは全身ほぼすべての部分になるため、遺骨は実はそのごく一部にすぎないともいえる。その意味で、遺骨を含めた人体試料全体を扱うことは、アイヌ民族に対する人権侵害問題の射程をさらに広げることにもなるだろう。」(27.)

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平野2018「「明治維新」を内破するヘテログロシア」 [論文時評]

平野 克弥2018「「明治維新」を内破するヘテログロシア -アイヌの経験と言葉-」『現代思想』第46巻 第9号:48-71.

各所で引かれているので読んでみたが、良かった。

「歴史を解釈し叙述することは、パズルのようにバラバラになったピースを組み合わせて既成の認識対象を再現したり描きなおすことではないだろう。それは、目の前に動かしがたく立ちはだかる(あるいはそのように思える)現実の生成の過程を解きほぐす作業であると同時に、その過程で逸脱し、排除され、沈黙させられ、あるいは遺棄されていった人びとの生きざまや言葉から、支配的構造や論理 -国民国家、帝国、植民地主義、資本など- に統合できない生の様式を「メシア的」(ベンヤミン)に探りあてることでもあるだろう。」(50.)

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