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山中2004「考古学における方法の問題」 [論文時評]

山中 一郎 2004「考古学における方法の問題」『郵政考古紀要』第35号:1-37.

「本論に論じられる「方法」とは、ひとつの科学(学問)の成立を基定する思考の進め方を言います。そしてすべての科学(学問)は必ず独自の「方法」をもつと考えます。
この「方法」の特性は、「系統性」と「普遍性」をもつことにあります。すなわち、その種の資料に対してであれば、あらゆる資料に適用できるという意味での「系統性」とともに、誰でもが同じ操作をすることができるという意味での「普遍性」を具備するところに、ひとつの「方法」が成立していることを認めようと考えます。この二つの特性こそが、考古学における作業の結果について、いわゆる「追試」を可能にさせると、考えることができます。」(1.)

極めて重要な問題が論じられている。
今まで何度も目を通していたのだが、今ひとつ踏み込んで取り上げることが出来なかった。それは、あくまでも一般論として眺めていたからで、自分が抱える諸問題に引き付けて考えてみたときに新たな容貌をもって迫ってきた。

筆者晩年の2002「ナショナル・アイデンティティと「日本考古学」」【2008-10-02】と2012「型式学から技術学へ」【2014-05-14】の間に位置する論考である。

「そこで実際の物質資料である考古資料を認識してデータ化する手段と、そのデータから論理類推を経る解釈段階とが連続的に進められるのですが、この二つの「手段」は分けて考えるべきでしょう。高度な論証あるいは類推の精神作用こそが、わたしたち人間が獲得した他の動物に見ない特徴的な行為と言うべきですが、考古学の作業にあっては、出発点に現実の理解があって、そこからこそ論証や類推がなされることを承知しておかねばなりません。まず問題にすべきは、事象のデータとしての認識の仕方でしょう。方法の問題を考えるときには、現実の事象を認識する手段を整理することと、認識されたデータを分析して、かつ解釈する手段を整理することを、混同しないように心がける必要があります。」(2.)

ということで、「考古学研究の作業の流れ」(概念図表)として① 資料(事象)の採取(発掘作業)、② 資料(事象)の認識(データの作成)Ⅰ遺構の認識 Ⅱ A 型式学的方法(形態の認識) B 技術学的方法(製作・使用の痕跡の認定)、③ データの分析 Ⅰ 遺物データの分析 Ⅱ 空間分析、④ a 分析結果の解釈 b 分析結果と他のデータとの複合解釈という枠組みが示される(4-5.)。

もちろんこれは筆者の経験に基づいて構築された枠組みであるが、大枠で異論はない。しかし当然ながらそこから漏れているものもあるだろう。そうした事柄を補足しながら、枠組みを検証しかつ豊かにしていくことが、後進である私たちに託された仕事である。
自らの抱える課題を分析・研究するときにこうした枠組みを参照しつつ考えを深めていくことが求められている。

たとえば、「日本旧石器時代研究」の大きな成果(方法の問題)とされる「砂川の母岩識別研究」は、この枠組みのどこに位置するのだろうか。
それは、筆者が「型式学的方法」を記している「② 資料の認識」であろう。
すなわち考古資料の認識には、筆者が想定するような「形態の認識」である「型式学的方法」や「技術学的方法」以外にも様々なレベルの認識があり得るのである。

それにしても筆者は「ひっつけること」(接合)については言及するものの、「母岩識別研究」について触れることはなかった。なぜだろうか。
それはそこにある種の「危うさ」を感じ取っていたからではないかというのが、私の「読み」である。

「…こうした作業は、データに依拠することしか語れないという態度を堅持させます。そこでは「想像を逞しくすること」を避けて、分からないことは分からないままに残す精神を持たねばなりません。根拠のないことを言わず、資料から引き出せうる論拠を求める、自制心に満ちた作業が求められます。それこそが考古学研究の特色なのです。」(10.)

それでは、緑川東問題すなわち大形石棒をめぐる問題はどうだろうか。② 資料の認識における齟齬(周到に置いたのか、適当に置いたのか、ある種の使用なのか、廃棄なのかなど)が、④ 解釈(製作時設置なのか、廃棄時設置なのか、特殊遺構なのか、一般遺構の再利用なのか)に結びついていると言えるだろう。

「Ⅱの遺物の認識作業は、考古学研究にあってはもっとも基本的な部分を占めます。それはあらゆる研究にあって、研究者の眼前に遺物(考古資料)を置くことを前提としましたから当然のことですが、考古学の研究史を概観しまして容易に理解できることです。「遺物を語らせる」とか、「遺物を読む」とかの表現をよく見受けますが、それは遺物をどう認識するかが考古学研究の「狭義」の出発点になっていることを示唆しています。」(9.)

それでは、『土偶を読む』問題はどうだろうか。
まさに「砂川」と同じように考古学的方法の基本特性である「系統性」も「普遍性」も欠いていることが理解できる。私たちのそうした意識の欠如が、こうした問題を招き寄せたと言えるだろう。

「大きな社会問題を提起した藤村新一さんの「捏造事件」の検証がなされ、その成果がまとめられていますが(小林ほか(編)2003)、「検証作業」は何を明らかにしたのかが明らかでありません。竹岡俊樹さんは「石器の観察・分析に確かな目を」(竹岡2004)と言っていますが、石器資料をデータ化するときの認識の問題を問いかけているのです。「捏造問題」の克服は、まさにこの竹岡さんの問いかけが学界としての共通の課題で論じられることから始まると思っています。この議論の深化が、竹岡さんの問いかけに十分に学界が応える形で深められない限り、「検証」は終了したとの主張は空しいものです。論じられる課題と、それに用いられるデータが整合していることが必要不可欠であるという認識を育むことが「捏造事件」からの次の一歩でなければなりません。」(9.)

「ボルドは「未製品」という概念を排除」(15.)したのだが、ここに「富山問題」を解く一つのヒントがある。
前期旧石器の両面体石器(ハンドアックス)なのか、それとも縄紋早期の石核なのか。

「「途中」とか「未製」と思われるときは、その理由を石器資料は語っています。それを観察せずに、定義された「型式」に分類するのが型式学的研究であると誤解した行為の集積が藤村さんの「捏造」を続行させたのだと思っています。形態の認識に偏りすぎているようにも思えるボルド型式学ですが、「未製品」概念の排除にボルドの石割り行為の本質の深い理解を見なければなりません。」(15.)

そして論の後半では、型式学を補完する技術学的研究の事例として瓦の布目圧痕に依拠する研究とチキシエによる打面部剥離面の形状からハンマー素材の違いを読み取る実験例などが述べられる。
技術学的な共通性は分かるのだが、型式学的に瓦と石器は同列に対比できるのかといった様々な疑問が残る。
これまた今や筆者に問うことは叶わず、後進の私たちに託された課題である。


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