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遺跡発掘調査発表会2023 [研究集会]

東京都埋蔵文化財センター2023 遺跡発掘調査発表会

日時:2024年3月20日(水)13:30~15:30
場所:東京都立埋蔵文化財調査センター 会議室
主催:公益財団法人 東京都教育支援機構 東京都埋蔵文化財センター

【口頭発表】
1.北区 道合遺跡  (鈴木 啓介)  2.府中市 武蔵台遺跡(間 直一郎)
3.文京区 原町西遺跡(五十嵐 彰)  4.台東区 元浅草遺跡(山崎 太郎)
【誌上発表】
1.世田谷区 殿竹遺跡(及川 良彦)  2.世田谷区 野毛遺跡(堀 恭介)

定員90名の事前予約制である。私の周りでも落選者が続出していた。配布資料の表紙写真モデルのお二方も揃って落選である。希望者にはURLを通知するといったオンライン中継などの手段は考えられないのだろうか。
与えられた25分の時間枠では、とても話し切れない。そうしたことごとを将来のためにメモっておこう。

1)阪谷芳郎 -幻の日本実業史博物館- 18C末~20C中 (1898-1950)
2)笠森稲荷 -膨大なカワラケと土玉- 18C前半~末  (1714-1797)
3)御殿堀  -五代将軍 徳川綱吉-    17C末~18C前半(1698-1713)
4)縄紋前期 -黒浜期住居-      5,500年前

発掘について「掘らなきゃ分からない」あるいは「掘るまで分からなかった」といったことがよく言われる。確かにそうなのだが、すべてがすべてそうであるわけではなく、有る場合にはそうであり、有る場合にはそうではなかったりするし、その程度もさまざまである。
今回の事例に当てはめてみれば、掘るまで分からなかったのは 4)黒浜住居跡、掘る前から分かっていたのは 3)御殿堀、そして掘るまで多くの人は分からなかったが、一部の人たちにはその存在は知られていたのが 1)阪谷邸および 2)笠森稲荷である。

まず今回の発掘調査の契機は、この地に1969年に構築された「最高裁判所 白山宿舎」(鉄筋3階建て官舎)の取り壊し・再開発である。この地が最高裁判所の敷地となるのは1950年で、以来20年弱の期間は戸建て住宅が3棟存在していた。最高裁判所の官舎というと、いかにも最高裁判所の裁判官たちが暮らしているようなイメージを抱くが、実際は高裁も地裁も家裁も裁判所に関連するあらゆる職員たちが利用していたようである。

1. 阪谷 芳郎 -幻の日本実業史博物館-
調査区の旧地番は「小石川 原町 百二十六番ノ七」で、法務局に保管されている旧土地台帳を閲覧すると「阪谷 芳郎→1913年寄付 財団法人備人館→1950年買収 最高裁判所」というこの地の履歴を確認することができた。
阪谷は岡山県の出身で、第1次西園寺内閣大蔵大臣、東京市長、貴族院男爵議員、専修大学学長などを務める。
土地台帳に「備人館」とあるのは近隣に現存する岡山県出身学生寮「備中館」の誤記である。
「原町西」を語るときに重要なのは、阪谷が渋沢 栄一の娘と結婚して姻戚関係となったことである。

1925年の『一万分一地形図東京近傍十一號「早稲田」』を見ると、「大学植物園」と記された現在の小石川植物園の北東部の広大な敷地が「阪谷邸」とされている。近隣には「荘田邸」あるいは「土方邸」といった文字も散見される。
「荘田邸」は大分・臼杵出身の荘田 平五郎の宅地で、荘田は慶応義塾の教員から三菱商会に入社し三菱草創期の形成に大きな役割を果たした。三菱造船所支配人、三菱合資会社理事長、日本郵船社長、東京海上火災保険会社会長などを歴任し、「三菱の大番頭」と呼ばれた。荘田邸跡地では、2002年に「林町遺跡」として発掘調査が行われた。刊行された考古誌では江戸時代の居住者については詳しく述べられているが、荘田 平五郎については言及がない。
「土方邸」は高知・土佐出身の土方 久元の邸宅で、土方は若いころ坂本 龍馬や中岡 慎太郎らと共に土佐勤皇党に参加して薩長同盟成立に尽力し、その後東京府判事、第1次伊藤内閣農商務大臣、宮内大臣、枢密顧問官、国学院大学学長などを歴任する。日本最初の洋館が建てられたという邸宅跡地は、発掘調査もなされず住宅地に変貌しているが、その一角には側面に1985年の日付が刻まれた「明治天皇行幸記念碑」が建つ。戦時期に南洋諸島で民族調査を行なった土方 久功(ひさかつ)は、久元の弟の息子である。

閑話休題、一万円札に登場する渋沢 栄一が1931年に死去する。跡取りである孫の渋沢 敬三は何とか祖父の夢であった「日本実業史博物館」を実現したいと、1939年北区飛鳥山にある渋沢邸敷地で地鎮祭を行ない建築に乗り出す。しかし当時の物価統制令などにより建築資材の入手が困難となる一方で、資料の収集は着実に進み、 敬三の勤務する第一銀行本店5階には膨大な資料が集積されていった。ところが敬三が日本銀行に転出することになり、その資料群を搬出する必要が生じた。その移転先として候補に挙がったのが、「文京区原町126番地ノ1」の阪谷邸であった。阪谷 芳郎も1941年に死去しており、敬三とはいとこ(四親等傍系親族)の関係にある跡取りの阪谷 希一(敬三からみて父篤二の姉琴子の息子、満洲国総務庁次長)から渋沢青淵記念財団が阪谷邸を買い取り、博物館分館として準備を進めていたが、これもまた1945年に断念することになった。阪谷邸はその後GHQに接収されたようである。膨大な収集資料は、現在立川市にある国文学研究資料館が所蔵している。

2. 笠森稲荷 -膨大なカワラケと土玉-
2023年6月から調査に着手、すぐに調査区の南東隅から膨大なカワラケが出土し始める。銀杏のような土玉も沢山混じっている。何だかよく分からないが、掘れども掘れども底が見えない。ようやく底が出たと思ってピンポールを刺すと、まだ何かにカチッと当たる。結局掘り上がったのは一か月半を要した8月上旬、深さ3m以上の巨大なカワラケ・土玉土坑の断面が出現した。後半には、現地での遺物の選別も断念して、排土ごと土嚢袋に、それでも追いつかず巨大なフレコンバッグ(フレキシブル・コンテナ・バッグ)に収納し、それが5つも6つにもなって、後日それらの中身を敷鉄板の上に広げて乾燥させながら遺物の回収作業を延々と続けることになった。

いったいこれは何だ?ということで、多くの方々に助力を求めたところ、当時の記録に小石川の地に笠森稲荷が所在したと記されていることが分かった。蜀山人こと大田南畝の『武江披砂』1818に「小石川白山御殿跡瘡守稲荷の儀、…大前氏屋敷に移候處、奇譚の儀有之、云々」と記されていた。調査区はまさにその大前家敷地の西半分に当たっており、カワラケと土玉もそこから出土していた。
小石川養生所に勤務していた小川 顕道という医師が記した『瘡家示訓』(別名『瘡守土団子』)という書籍には「瘡守稲荷大明神」と記された石碑と共に茶店の縁台に並べられた土団子が盛られたカワラケの挿図もあった。こうした事々を知らないのは、実は自分だけではないかと思わされた出来事があった。それは、一緒に発掘をしている方から「こんなのがありました」と岩波新書に挟まっていた「笠森稲荷」を説明する栞を示された時であった。あわてて確認した『広辞苑』にも記載されていた。

3. 御殿堀 -五代将軍 徳川 綱吉-
原町西の土地履歴は、本来将軍にはならないはずの綱吉が将軍となったことから大きく変貌していく。家康以来の長子相続という原則も、四代将軍家綱が継嗣なく死去したために途絶する。家綱の弟である次男は夭折、三男の甲府宰相綱重も兄家綱に先立って35才で死去、そのため4男の綱吉に将軍職が回ってきたという訳である。
それまで館林藩下屋敷だった小石川白山の敷地が、1680年の綱吉将軍就任に伴って幕府の御殿となり、以後拡張を重ねた末の1698年に御殿周囲を取り囲む幅15mの水堀が構築される。堀に水を導き入れるために1696年に玉川上水の境橋から総延長22kmの千川上水が構築される。
地元の文京ふるさと歴史館が所蔵する「小石川御殿図」には、調査区が位置する御殿北西角に「水道上ハ道」「取出」という文字と共にやや湾曲した上水溝が描かれている。正に絵図に描かれた通りに調査区から上水溝が確認された。ただし絵図と実際に見出された遺構との相違は、絵図には当然のことながら1本の溝が描かれただけなのに、遺構は同じようなただし溝底面のレベルが異なる溝が3本並行して見出されたことである。作り替えに伴う時期差ある上水溝と考えざるを得ない。文献には、千川上水に関してこうした更新工事がなされたといった記載は見当たらないようである。

4. 縄紋時代前期 -黒浜期住居跡-
御殿堀のコーナー部分がなぜか異様に黒色土が厚く堆積している。訝しく思いながら調査をしていると、縄目のついた土器片がパラパラと出てくる。結果的に黒浜の住居が姿を現した。木葉痕のある土器底部もあった。これから都内の黒浜資料を集成しないといけない。

彫刻家で評論家の小田原 のどか氏が群馬の森の朝鮮人追悼碑撤去について「身近な地域、深い関わりのある場所にどんな歴史があるのかといった、その場所固有のリアリティーを掘り起こしていくことが大切です」と述べていた(『朝日新聞』2024年3月14日オピニオン)。
考古学の発掘調査というのは、まさに発掘地に「どんな歴史があるのか」という「その場所固有のリアリティーを掘り起こす」作業である。



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