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西川1984『ラッパ手の最後』 [全方位書評]

西川 宏1984『ラッパ手の最後 -戦争のなかの民衆-』青木書店

やはり「タダモノ」ではなかった!

私の手元にある著者の論文リスト。
1965「朝鮮文化財は誰のものか」『考古学研究』第12巻 第2号:2-7.
1966「在日朝鮮文化財と日本人の責務」『歴史地理教育』第116号:1-10.【2018-12-01】
1968「帝国主義下の朝鮮考古学 -はたして政策に密着しなかったか-」『朝鮮研究』第75号:37-43.
1970「日本帝国主義下における朝鮮考古学の形成」『朝鮮史研究会論文集』第7号:94-116.【2010-02-28】
1970「日本考古学のなかの帝国主義的思想 -キム・ソクヒョン『初期朝日関係研究』の提起するもの-」『考古学研究』第16巻 第3号:2-6.
1970「年表 日本帝国主義下の朝鮮考古学(第1版)」『考古学研究』第16巻 第4号:13-21.
1988「鬼神の業と国体明徴 -永山卯三郎の考古学-」『考古学と関連科学 -鎌木義昌先生古稀記念論集-』:325-331.
1995「戦跡考古学の発展のために」『展望 考古学』考古学研究会40周年記念論集:332-338.
1996「わが国の軍隊は空襲から市民を守ったか -いわゆる高射砲陣地の考古学的検討から-」『考古学研究』第43巻 第3号:4-12.
2000「戦跡考古学の軌跡と現状」『大塚初重先生頌寿記念考古学論集』東京堂出版:978-991.

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勅令第263号(補) [学史]

教職員適格審査施行規則に関する件
(昭和二十一年八月七日発適第一七号適格審査室長ヨリ官公私立大学長学校集団長地方長官宛)
右の件につき左記の通り別表第一第六項の解釈が決定しましたから御承知下さい。
                記
昭和三年一月一日以降に於て日本軍によつて占領された聯合國の領土内で日本軍の庇護の下に学術上の探検或は発掘事業を指揮し又はこれに参加した者」の解釈は大体次の通りである。
一、旧満州國、中華民國、南方諸地域等で軍の庇護の下に純粋に軍事上の目的のため学術上の探検或は発掘事業を指揮し又はこれに参加した場合一應該当するのであるが世界文化の進展に寄与するが如き純粋に学術上の研究が主である場合は該当しない。
ニ、資源或は貴重なる物件を奪取する目的で考古学等に関する学術上の探検又は発掘事業を指揮し又はこれに参加した場合は該当するがそれらの物件を発掘したとしても科学的に分類整理して世界の学術に研究に役立て公共の利用に供し得るように取扱つたものであつて之を私の利益のための私蔵したものでなければ右に該当しないのである。
(文部大臣官房文書課 1949年3月 『終戰教育事務処理提要』第三集:369-370.)

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遺跡問題2023 [遺跡問題]

「港区では、近世(江戸時代)の遺跡については、遺跡の特徴を最も良く示す名称(例えば、遺構等の最も残存状態が良好な時期の遺跡該当地居住者あるいは占有者名、遺跡該当地の土地利用を最も端的に示している名称等)を冠し、遺跡名称としている。また中世以前の遺跡については、遺跡所在地を示す最も適当な地名等を冠し、遺跡名称としている。本遺跡周辺は江戸時代に愛宕下大名小路等と呼ばれ、大名・幕臣屋敷が集中していたことから「愛宕下武家屋敷群」として括り、個々の調査地点に既述の方針に従って遺跡名称を付すこととした。本遺跡は、検出遺構・出土遺物の主体が、陸奥一関藩田村家の屋敷に関連するものであることから、「愛宕下武家屋敷群ー陸奥一関藩田村家屋敷跡遺跡」とした。遺跡番号は「TM181-4」である。」(『愛宕下武家屋敷群 -陸奥一関藩田村家屋敷跡遺跡- 発掘調査報告書』2017「凡例 1.遺跡名称」)

2005年に地中から「X字」状に組んだ地中梁の端部に斜めに樹立する櫓基礎が出現して度肝を抜かれた思い出の地である。

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