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ボダルト=ベイリー2015『犬将軍』 [全方位書評]

ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー(早川 朝子 訳)2015『犬将軍 -綱吉は名君か暴君か-』柏書房(Beatrice M. Bodart-Bailey 2006 THE DOG SHOGUN The Personality and Policies of Tokugawa Tsunayoshi. Univ. of Hawaii Press.)

地表から4m弱の堀の底に立つと、目の前に法面仰角35°、法面長5.7mのローム面が迫って来る。西側法面の真ん中には、千川上水から水を引き入れた導水溝がぽっかりと口を開けている。
閑静な住宅街の地下に眠る周囲1.8kmに及ぶ巨大な御殿堀。水を湛え、要所には櫓が聳える。今では想像もつかない。1698年に構築されて、1713年には埋め戻された。僅か15年ほどの光景であった。

「綱吉の政策が武士にとっては苦痛を与えるものであったことを考慮するならば、史料を読む際には、その性格や書かれた目的についての慎重な考察がなされなくてはならない。このことは十分に厳格な姿勢でもって常に行われてきたとは言えず、そのことに筆者は、綱吉の人格と統治を分析する上で、さらに別の盲点があることを認めている。史料の大半は武士が武士のために書いたもので占められていて、それらは武士の考え方を擁護し反映するものであり、全体主義的な政府の政治的都合により、選択的に保管され編纂されてきたのである。(中略)
武士である筆記者により、「国全体」を苦境に陥れたとして批判された数々の政策は、人口のはるかに多くの部分を占めた庶民にとってはしばしば有益だったのである。」(17.)

綱吉と言えば、生類憐みの令。あるいは忠臣蔵における不当な裁き。
一般的には「暴君」との評価が定着している。
しかし本書では「名君」との再評価が強く押し出されている。
どういうことか?

江戸時代に記されて現代に伝わる文献資料の殆どは、識字階級である武士あるいは宗教者たちによるものである。
当然のことながら作者にとっての利害関係が暗黙のうちに反映することになる。
すなわち武士にとって今まで「切り捨て御免」に代表されるような、庶民の生き死に生殺与奪の権利を無条件に与えられていたが、それが突如として取り上げられた訳である。「犬屋敷」といった現象のみが殊更指摘されてきたが、その背景には堕胎・嬰児殺し・捨て子といった弱者に対する生命の軽視を改め、鷹狩りといった武士階級の欲求のみを充足させる遊興を抑制し、命あるすべての、すなわち「生類」を愛護するという新たな時代に相応しい生活態度を定着させる思想があった。そのことを指摘する歴史家は、数少ない。

「一般の人々をもっと尊重し、彼らにさらに多くの権利を付与するという政治イデオロギーは、必然的に、支配階級である武士の特権や自由を制限し、地位を相対的に低下させることとなった。武士の反発は避けがたく、その結果引き起こされた、将軍と伝統的な権力保持者との間の争いの結果であると同時に、絶えずそれにより生み出されてきたということである。」(16-17.)

本書は、ドイツ生まれの筆者がオーストラリア国立大学に提出した博士論文が基となっている。非日本人という第三者的な立場から、綱吉と同時代に同じような第三者的な立場であったドイツ人で『日本誌』を著したオランダ商館付き医師エンゲルベルト・ケンペルの視点を通して、従来の日本の歴史学者たちとは異なる視点から新たな解釈が示されている。
そこには従来の日本史研究者たちが言及することのないエリクソンからエリアーデ、ブルデューそしてフーコー、ウェーバーに至る様々な知見が適用されている。

「慈悲深い専制君主として人民を直接治める、古代中国の賢帝堯・舜を綱吉が理想としたことも、家産国家を率いる「国父」というウェーバーのモデルによく当てはある。半封建的・地方分権的国家は軍事力に頼るが、家産国家は民衆を慈悲深く統治することで争いを回避しようとするという、ウェーバーの導き出した結論もまた、綱吉政権下で起きた変化と合致する。綱吉は非常に残酷であったと非難されてきたが、そのような非難について調べてみると、綱吉の厳格さは庶民よりも武士に向けられたものであったことが明らかになる。大名廃絶や、役人の処罰などの数多くの事例は、この範疇に入る。熊沢蕃山が綱吉を「無慈悲」と非難するのは、行政を担う武士に対する徹底的な監視を行ったことについてであり、庶民に対するいかなる政策もここでは問題にされていない。」(529.)

「綱吉は間違いなく、武士の扱い方においては厳格で「無慈悲」であった。しかしウェーバーのモデルにより、権力を支配者の下に集中させること、またその過程で武士から権力と特権を奪い、一方で庶民に対する政治を改善することは、パラダイムの変化がたどる通常の道筋にすぎなかったことが示される。さらにウェーバーによると、この分権的支配から官僚制的支配への移行は近代国家の誕生に不可欠なのである。国を治めるため、伝統的な大土地所有者と権力を分かち合うことなく、支配者が創り上げる複雑な統治機構は、そこに存在する民主主義の程度に関係なく、近代国家にいっそう求められるそれと同じである。」(531.)

歴史とは支配者に都合よく作られて語られると言われるが、私が今まで抱いていた曖昧な綱吉イメージもそうした文言にピタリと当て嵌まる。
綱吉をことさら貶めることによって、自らの利益・特権を確保することが目的とされていたのだ。
誰が誰に対して何を語っているのか、そのことの吟味(史料批判)が欠かせない由縁である。

小石川白山御殿の周囲を巡る御殿堀の痕跡を最初に確認したのは、1994年になされた徳島県職員住宅の改築に伴う「原町遺跡(No.21)」の調査であったが、その時は、検出した遺構を御殿堀と認識することはできず、単に「整地遺構」として報告されていた。その「整地遺構」なるものは、1698年に綱吉が徳島藩第5代藩主の蜂須賀綱矩に命じて構築させたことは、全くの偶然である。

複数の<遺跡>を貫く一つの巨大な「遺構」。正に<遺跡>問題そのものである。


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五十嵐彰

「基礎教育課程を終えた後、シドニー・クロークァー教授の指導のもとで私は千利休の手紙を研究し、16世紀後半の茶の湯制度に関する修士論文を書いた。茶の湯の宗匠利休が書いた難解な手紙を読み解くことは、私にはほとんど不可能に思えたこともあった。だが目の前にある困難が大きければ大きいほど、かえって私はそれをのりこえようと自分を励ましたのである。
とはいえ、私の目の前にある困難は、たんに日本語の文献が読むに難解であったということだけなのではない。大学で研究をすすめる間に、私はオーストラリア人の外交官と結婚し、夫の赴任先であるタイに転居することになった。運送業者が私の机を運んで行ったのは、ちょうど私が修士論文の校正をしていた時である。それで私は、私の代わりに修士論文の完成版を大学に送ってくれるように、製本業者に頼まざるを得なかったくらいである。またこれにくわえて、私は当時身重だった。2年のちにタイからオーストラリアに戻ってきたとき私たちは3人になっていた。私たち夫婦の娘ミアは、いたずらざかりの1歳半だった。当然のことだが、私の友人や親せきの中には、私に対して、もう大学での勉強はやめてはどうかと言う者もいた。しかし夫は私に理解を示してくれた。満たされぬ想いを持つ母は、決して良い母ではないということを、かれは充分に承知していたのである。」(B・M・ボダルト=ベイリー(中 直一 訳)1994『ケンペルと徳川綱吉』中公新書1168:239-240.)
by 五十嵐彰 (2023-12-07 14:53) 

阪本

時機を逸した書き込みで失礼します。
たぶん噛み合わず、不毛な書き込みになると予測しますが、昨今、綱吉の治世をめぐる歴史的評価は迷走気味で、こちらの書評もそれに連なるものと読みました。以下私見です。長文ご容赦ください。なお、私はベイリー『犬将軍』は未読です。
まず、最新の高校日本史教科書の記載の一例。
「綱吉は,大名・幕臣の綱紀をただし,賞罰をきびしくしたため,多数の大名・旗本が改易・減封処分を受けた。一方で,学問を好み,みずから儒学の経典を講義するほどであった綱吉は,前代家綱の文治主義的傾向をさらにすすめ,儒教倫理や学問文化を重視する政策をおこなった。(中略)綱吉は仏教の信仰もあつく,生母桂昌院の帰依もあって,多くの寺社の建立や修築をおこなったため,財政逼迫に拍車をかけた。また,捨子・捨牛馬の禁止や犬愛護など,生類全般に対する憐みを過度に強制したため(生類憐みの令),人々の間で不満が高まった。これに関連して,農村での鉄砲の所持・使用に規制を加えた。そのほか,近親者が死んだときに喪もに服する日数や,死の穢れなどにふれた際に取るべき措置などを定めた服忌令を発布した。(以下略)」実教出版『日本史探究』2023
 最新のものにふさわしい、バランスのとれた洗練された記述だと私は思いますが、「過度に強制したため、人々の間で不満が高まった」と明記され、不満を高めたのは「武士」ではなく「人々の間」ですから、書評の観点とは相いれないでしょう。
 ご存じのことと思いますが、綱吉の評価は結構以前から見直されています。高橋・三谷・村瀬2016『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館)では、「江戸時代④ 綱吉は悪役か、名君か」という項立てがなされ、「綱吉の施策の中で、もっとも評判が悪かった生類憐みの令についても、現在では異なった評価が見られる」として、「人々を苦しめたと書く教科書がある一方で、それを踏まえつつも、生命や自然を尊重する道徳の定着をもたらした意義があったとしたり、動物や捨て子、行き倒れ人を保護する命令と捉え、江戸市中の秩序を乱す「かぶき者」に対する処罰とあわせて、秩序ある安全な社会の実現を目指したと評価する教科書もある」と述べています。ベイリー氏的な視点を反映している教科書は既にあるわけです。
 手元にある一般向けの歴史本も同様です。福田智弘2013『裏も表もわかる日本史 江戸時代編』(実業之日本社)は、「天下の悪法・生類憐みの令発布」という項でかなり詳しく扱っています。「近年では、この法令、および法令を出した綱吉に対し、好意的な見方も増えてきている」として、「動物だけでなく、人間も含め、弱い立場に置かれた生き物全般を保護する社会を作ろうという趣旨の法令」と述べます。そのうえで、「問題は、これらの法の精神を拡大解釈して、取り締まりを強化した幕府の現場の役人たちの行動にあったのではないか、と指摘する声が増えてきている」とか、「お触れが数十回も出たということは、お触れを守らない人がそれだけ多くいた、ということの証拠ではないだろうか、(中略)実際に取り締まりにあったのは、ごく一部で庶民生活に大きな影響が出るほどではなかった」とも。歴史系ライターの福田氏は博捜されていて、「実刑となった人の数は意外と少なく、二十五年間でわずかに六十九件。しかもその大半は武士であり、一般庶民ではなかっという説もある」ことや、綱吉を悪玉化したのは6代家宣のもとで政権を担った新井白石であることにも触れています。福田氏の記述に従えば、実教『日本史探究』は、依然保守的な綱吉評をしていると言えるかもしれません。
 では、近年は綱吉=悪玉説をとっている論者はいないのか? いました。2018年のベストセラー『日本国紀』の百田尚樹。百田本を隅から隅まで、非常に丁寧に、日本史研究の現状を踏まえて徹底批判した浮世博史2020『もう一つ上の日本史 古代~近世編』(幻戯書房)は、高校教員の私としても学ぶところ大の良書です。現役の高校教員でもある浮世氏は、「生類憐みの令」を「馬鹿げた法律」、綱吉を「完全なバカ殿」と断じる百田の行論に当然反論しています。ただし、浮世氏の批判の中心点は、悪政イメージを増幅させたのは、「綱吉時代の政治をかなり嫌ってい」た白石によるものだから、史料批判抜きでそれを鵜呑みにする百田の手法に対してです。残念ながら、憐みの令の実態には何も触れていません。
 綱吉の治世をめぐる評価の変容は、歴史学研究の進歩を象徴しており、おもしろいです。その意味で『犬将軍』の高評価も理解できます。
 しかし、「生類憐みの令」(百件超の触書の総称)による実際の運用(=判例)についても、ベイリー氏はとりあげているのでしょうか? それも含んだうえで、「弱者に対する生命の軽視を改め」と述べているのなら、私はその歴史的センスを疑います。
 以下は、『御仕置裁許帳』(江戸時代の判例集)に記載された判例です。
・元禄元(1688)年1月:鶏を殺して肉を売買した与四兵衛と伊右衛門。与四兵衛は獄死。伊右衛門は死罪。
・元禄2(1689)年4月:江戸城の堀で鯉・鮒をとって食べていた者7人がさがし出され全員死罪。
・元禄4(1691)年11月:鷺をとらえて料理して食べた三助・六郎兵衛・平右衛門の3人に死罪。
・元禄7(1694)年7月:知行地の猪を百姓に二頭仕留めさせた酒井伝左衛門が死罪。
・元禄8(1695)年10月:子犬が溝にいるのをみつけた八兵衛。八兵衛は子犬を番所に連れて行かないで、役人の屋敷近くに捨てた。八兵衛は死罪。
・元禄9(1696)年2月:半兵衛は恨んでいた孫右衛門の飼い犬を絞め殺して、孫右衛門の使用人がやったように見せかけたが、ばれた。半兵衛は死罪。
・元禄10(1697)年2月:主人の屋敷にいた鳩を射殺した折茂小兵衛に死罪。
 支配身分としての武士は、酒井伝左衛門くらいで、ほかは町人かせいぜい武家奉公人です。こうした実態は、小川和也2014『儒学殺人事件』(講談社)で初めて知りえました。ふざけだ書名ですが、小川氏は近世思想史の研究者で、この本は、綱吉時代の大老堀田正俊が江戸城内で刺殺された殿中刃傷事件を扱った研究書です。
 現代社会の価値観や法律観で、江戸時代を評価することには慎重であるべきでしょう。仮に近世を通して、こうした刑罰が一貫して存在しており、綱吉の治世にだけそれが顕在化したというなら、そもそも治世の善悪を論じる対象にもならないと思います。しかし、「万物一体の仁」という美名を掲げた君主の、際立った信念のもとでのみ、こうした罪科が判じられていたのなら、「わずか六十九件」(?)でも相当に異常と言うべきでしょう。これが役人の拡大解釈というレベルで済む話でないことは、綱吉と同じ儒学重視の立場から、仁政をめぐり諫言を行っていた堀田正俊の死後に、生類憐みに関する一連の触書が発せられた事実からもよくわかります。小川氏は、生類憐みが綱吉の「仁政」理念に発することを十分わかったうえで、「近年、生類憐みの令が「仁政の実現」というような評価を受け、見なおされていることは、(中略)仁政の片面しかとらえていないように思われる」「政策立案の主観的意図と、それを達成するための手法の関係をとらえそこなっているのではないか」と提起しています。
 江戸時代はそれ以前と比較にならないほど各種資料が残り、相互の史料批判が可能なだけに、捨て子の禁止と江戸城の濠で魚を釣って7人死罪になる事態が「両立」していたというリアルに基づいてこそ、近世社会を語る意味があると考えます。

by 阪本 (2024-02-26 21:03) 

五十嵐彰

丁寧なコメントを寄せて頂いてありがとうございます。
私も綱吉が作らせた巨大な御殿堀に向き合うまでは、単に「犬将軍」といった漠然としたイメージしかありませんでした。慌てていわゆる「綱吉本」をいくつか読みましたが、いずれも否定的な評価で貫かれていました。ある本には「パラノイア」とまで書かれていました。しかし本書によって史料は誰が何のために書いたのかに留意しなければならないという当たり前の史料批判について教えられました。
「人々の間で不満が高まった」という場合の「人々」は、本当に当時の徳川治世下にあった「全ての人々」なのでしょうか。実は、この「人々」とは当時文字を書き記すことができた一部の特権階級の「人々」だったのではないかというのが本書の出発点です。文字を書き記すことができなかった被支配者階級の「人々」の不満を、いったいどのような根拠に基づいてどのように確認したのでしょうか。
近年の綱吉評についても、ご教示ありがとうございます。
本書については、私の引用の仕方が適切でなかったのかもしれません。
歴史の「リアル」を語る、難しいですね。
本書を読まれてから改めて感想をお伝え頂ければ嬉しいです
by 五十嵐彰 (2024-02-28 12:20) 

阪本

先日はベイリー『犬将軍』の関係ページのコピー、大変ありがとうございました。
60ページ分で批評もおこがましいですが、読後、やはり小川和也『儒学殺人事件』の「(生類憐みの令が)「仁政の実現」というような評価を受け、見なおされていることは、(中略)仁政の片面しかとらえていないように思われる」という記述は妥当だなと再確認した次第です。以下、もろもろ感想です。
『犬将軍』のベースは、ベイリー1994『ケンペルと徳川綱吉』(中公新書)なのだと思いますが、今回『犬将軍』の一部を読んでみて、ここ十数年の綱吉時代の見直しは、この新書(未読です)の影響が大きいのだろうと想像できました。
野澤道生という著名な高校教員による綱吉評価(『日本史ノート』解説「犬公方綱吉の再評価」)は、五十嵐さんのそれとかなり重なってます。

ベイリーが批判的に紹介している「唐犬の形をした小さな湯たんぽ」は、私の学校で使用している副教材の図表にも写真が掲載されています。説明文には「綱吉との関係は不明」と明記されているのに、です。こうした資料選択の問題性については、牢獄での待遇改善(知りませんでした!)とともに、私も次の授業から早速生かそうと思います。
意外だったのは、ベイリー自身「綱吉は突如としてただひたすら犬を保護しようと決意し、違反した場合は何であろうと、死をもって罰せられるまでになったかのようである」(281頁)とか、「綱吉は、自らが継承した社会において暴力を減らそうと試みたのであったが、犬の保護に関しては裏目に出たのであり、結果として難儀な状況を生じさせたことに間違いはない」(294頁)とも述べていること。「事実」認識自体に、他の研究者と深い溝があるわけではないようです。
ベイリーは「(結果として難儀な状況を生じさせた)問題の根源には、武士が、庶民の生活を軽視したということがあった」のであり、犬の保護をめぐって責任逃れをする武士の行動を取り締まるために綱吉は行動を起こしたのだから批判されるべきは綱吉ではない、としている。一方で小川は、そうした綱吉の思想と行動を「厳罰主義」、仁政の片面的評価として批判的に位置づけている。そこが違いということでしょうか。
私が驚かされたのは、「動物に危害を加えたことが罪なのではなく、綱吉の命令や国の法に公然と逆らったことが罪なのであり、それは、いかなる独裁国家においても厳格に処罰されるべき犯罪であった。綱吉は犬のために人を殺したという…見解は、…歴史的には不正確」という記述(291頁)。これでは、専制君主に問うべきは、その理念(=仁政意識の有無)だけであり、それに伴う結果は別問題ということにならないでしょうか? ベイリーはケンペルに依って、江戸時代は「幕府の法に違反した場合は例外なく死をもって罰せられ」たこと、「今日では些細なことと見なされる数多くの違法行為に対して死が適用された」ことを指摘しています(291頁)。私が言いたいのは、こうした状況(樟脳1ポンドの密貿易で死罪とか)は将軍が誰であっても同じだったが、綱吉時代は、それに加えて生類保護違反でも死罪にされたのだから、極端で独善的な専制君主と批判されても仕方ないよね、ということに尽きます。
いやいや切捨御免も許されなくなったんだ、という反論に対しては、そもそも近世における切捨御免自体の実態(頻度など)がよくわかっていないので、生類憐み違反による死罪適用とは比較しようがないのではないでしょうか。同時代人が「犬や魚で死罪になったが、切捨御免で死ぬ人も減った」と感じていたなら、町人文化の中にそうした状況を伝える形跡も見出せるはずではないのか(まったくの素人考えですが)。
最後に、今回あちこち検索しているなかで、溝口・高山2019・2020「「生類憐みの令」の動物観 上・下」『生物学史研究』99・100という論文を見つけました。一般雑誌・教科書の記述の変化を丁寧に追ったうえで、膨大な憐み令を哺乳類・鳥類・魚介類・爬虫類から人間まで対象ごとに区分し、網羅的に禁令を掲載しています(憐み令や治世に対する評価は一切なし)。こういうのを見ると、歴史学者である塚本学が「偏執狂的」と評するのも私は頷けてしまいます。
by 阪本 (2024-03-20 16:31) 

五十嵐彰

「綱吉の政策がウェーバーのモデルのプリズムを通して分析されるならば、それが、気の触れた一個人によるでたらめな計略ではなく、普遍的なパラダイムの変化のルールに沿ったものであることが明らかになる。」(ベイリー:528.)
これがベイリー2015の一つの結論です。ベイリー綱吉が塚本綱吉と異なる最大の点は、こうしたウェーバーをはじめフーコーなど世界の社会学や政治学・経済史学などの成果に基づいて、日本の近世史学を捉えている点だと思います。こうした学問的な諸成果について、これらは「思想史」だから「日本史」とは別物とするのではなく、私は積極的に参照軸とすべきという立場です。
だってジェンダー史や医学史、さらには労働運動史そして生物学史も、哲学や現代思想を抜きには語れないでしょう。
考古学も歴史学としての観点からだけではなく、より大きなそして広い思想的潮流に位置付けたいというのが、第2考古学的な立場です。

by 五十嵐彰 (2024-03-20 19:47) 

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