「りやく奪財産関係件名一覧」 [学史]
文部省大臣官房総務課 1950年3月「りやく奪財産関係件名一覧」『終戰教育事務処理提要』第四集:386-391.
冒頭の「まえがき」に「りやく奪財産関係のものも紙数の関係上連合國の指令の件名のみを掲げることにした」と記されている。また「この関係の指令、通達措置等については別に今後まとめて編集する予定である」ともあるが、結局「まとめて編集する予定」は実現しなかったようである。
掲載対象期間は1946年9月1日から1949年3月31日までの2年半である。
なぜ「略奪」の「略」が平仮名なのか理由はよく分からない。
全部で107件の件名が掲げられている。
その内訳は、以下の通り。
なぜ「略奪」の「略」が平仮名なのか理由はよく分からない。
全部で107件の件名が掲げられている。
その内訳は、以下の通り。
1.図書(文書・論文など):55件
2.文化財・考古資料・美術品(絵画など):17件
3.科学標本(人骨・植物・昆虫など):10件
4.自動車:8件
5.器材(ラジオ・地球儀など):5件
6.金銀・財宝・貨幣など:3件
7.原材料・鉱物など:2件
8.略奪資料全体:5件
9.その他:6件
2.文化財・考古資料・美術品(絵画など):17件
3.科学標本(人骨・植物・昆虫など):10件
4.自動車:8件
5.器材(ラジオ・地球儀など):5件
6.金銀・財宝・貨幣など:3件
7.原材料・鉱物など:2件
8.略奪資料全体:5件
9.その他:6件
一件につき複数の項目が含まれている場合があるので、各項目の合計は111件となる。
まず図書類が圧倒的に多い。
文化財あるいは考古資料に関係する項目を少し挙げてみよう。
まず図書類が圧倒的に多い。
文化財あるいは考古資料に関係する項目を少し挙げてみよう。
三、蘭領東印度より接収せる頭蓋骨についての報告書の請求(昭和21年9月13日 連合國軍総司令部発 第700,1号)
二四、香港より持ち去られた考古学資料について(昭和22年1月17日 連合國総司令部発 第4号)
三五、フイリツピン諸島マニラ大学より持ち去られた考古学標本について(昭和22年3月13日 連合國総司令部発 第461号)
三九、掠奪せる考古学標本の在日総目録の件(昭和22年3月25日 連合國総司令部発 第0004号)
七四、中國山東省芝罘縣より持ち去られた二〇箇の考古学標本類入の鉄板製の箱について(昭和23年1月5日 連合國総司令部発 第0004号)
九八、中國より持ち去られた文化財及び図書の全國的調査について(昭和24年2月8日 連合國総司令部発 第386号)
一〇三、戦時中被占領諸國より持ち去られた文化財及び図書に対する全國的探索について(昭和24年3月3日 連合國総司令部発 第386,6号)
二四、香港より持ち去られた考古学資料について(昭和22年1月17日 連合國総司令部発 第4号)
三五、フイリツピン諸島マニラ大学より持ち去られた考古学標本について(昭和22年3月13日 連合國総司令部発 第461号)
三九、掠奪せる考古学標本の在日総目録の件(昭和22年3月25日 連合國総司令部発 第0004号)
七四、中國山東省芝罘縣より持ち去られた二〇箇の考古学標本類入の鉄板製の箱について(昭和23年1月5日 連合國総司令部発 第0004号)
九八、中國より持ち去られた文化財及び図書の全國的調査について(昭和24年2月8日 連合國総司令部発 第386号)
一〇三、戦時中被占領諸國より持ち去られた文化財及び図書に対する全國的探索について(昭和24年3月3日 連合國総司令部発 第386,6号)
当然のことながら「連合國総司令部」が関与するのは、連合国を構成する諸国すなわち「中國」「フイリツピン」「オランダ領インドネシア」などであり、朝鮮半島から「持ち去られた」膨大な考古学資料や文化財については関知しなかった。
「三、蘭領東印度より接収せる頭蓋骨」とは、森本2010『文化財の社会史』695-703.で記された皇居で見つかったソロ人頭骨のことだろう。
「中國より持ち去られた文化財」の「全國的探索」あるいは「被占領國より持ち去られた文化財」の「全國的探索」がなされていた1949年ごろに当事者たちは、どのようなことを考えていたのだろうか。
「この40年間における中國考古學のすばらしい進歩その進歩に貢献したおほくの國々の、おほぜいのひとたちを回想するとき、おのづから将来における緊密な國際提携といふことがねがはれる。學術そのものの性質として個々別々の調査研究も、月日のたつうちにはおのづから緊密に綜合されるものだといふことは、すでに體験したところである。けれども将来には、過去のごとくてんでばらばらでなく、すすんで計書的な分擔協力が必要だとおもふ。そのためには、どうしても中國乃至東亞の考古學を研究しようとするひとたちの國際的學會が必要である。そして定期に會合をもち、たがひに交流をたもつことが必要である。いまこの世界の變動期にあたり、國際協力がますます痛感されてゐる。學術のやうなもともと共通な地盤をもつたものが、すすんで提携できないやうでは、ほかの部面における國際協力なんかなほさら夢のやうなものであろう。」(水野 清一1948「中國考古學四十年」『中國文化』第2輯:24.)
1946年には天皇が発した法令として日本軍の庇護の下に発掘事業を指揮し、これに参加した者は教職不適格者として適格審査委員会の判定に従うように定められていたにも関わらず、まるで他人事のようである。自らを省みる気配は感じられず、将来の希望が熱く語られている。
これでは1949年になされた収奪文化財の全国的調査や探索に対しても、当然のことながら不本意で厄介な出来事といった認識しか抱かなかったであろうことは予想がつく。
むしろ思いは、過去の自らの行いより1948年4月2日に発足した日本考古学協会といったこれからのことにあったのだろう。
そこに戦争責任という問題意識は欠片も見られない。
これでは1949年になされた収奪文化財の全国的調査や探索に対しても、当然のことながら不本意で厄介な出来事といった認識しか抱かなかったであろうことは予想がつく。
むしろ思いは、過去の自らの行いより1948年4月2日に発足した日本考古学協会といったこれからのことにあったのだろう。
そこに戦争責任という問題意識は欠片も見られない。
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