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考古学者の教職追放(勅令第263号 別表第一 第六項) [学史]

「公職追放」とは、公共的な職務に特定の人物が従事することを禁止することをいう。特に教員や教育関係者として不適当な者を教職から排除した措置については「教職追放」と呼ぶ。財閥解体や農地改革と共に、戦後の民主化政策としてなされた。「公職追放」は、1945年10月に出されたGHQの指令に基づき、議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを追放することで、軍国主義的・超国家的傾向を排除して民主主義的傾向を強化することを目的とした。「精神的な武装解除」ともされる。1952年4月の対日講和条約発効とともに自然消滅した。

考古学に関連する「教職追放」は、1946年5月6日に「勅令第263号」として公布され、翌7日『官報』第5790号に告示された。詳細は「閣令・文部省令・農林省令・運輸省令第1号」として「教職不適格者として指定を受けるべきものの範囲」が示された。「別表第一」には、適格審査委員会の判定に従う者として「一-1.侵略主義あるひは好戦的国家主義を鼓吹し、又はその宣伝に積極的に協力した者及び学説を以て大亜細亜政策、東亜新秩序その他これに類似した政策や、満洲事変、支那事変又は今次の大戦に理念的基礎を与へた者 一-2. 独裁主義又はナチ的あるひはファシスト的全体主義を鼓吹した者 一-3. 人種的理由によつて、他人は迫害し、又は排斥した者 一-4. 民族的優越感を鼓吹する目的で、神道思想を宣伝した者」などが示されている。
「日本考古学」として重要なのは、最後の第六項である。

六、昭和三年一月一日以降において、日本軍によって占領された連合国の領土内で日本軍の庇護の下に、学術上の探検あるひは発掘事業を指揮し又はこれに参加した者

侵略主義者・好戦的国家主義者・独裁主義者・ナチ的ファシスト的全体主義者・人種差別者などと共に侵略考古学者が指定されている訳である。
第六項に従えば、中国大陸の各地で発掘を主導した東亜考古学会の関係者(東京大学の原田や駒井、京都大学の梅原や水野など)は当然のことながら「好ましからざる人物」となる。
勅令第263号はGHQの指令に基づくから「日本軍によって占領された連合国の領土内」すなわち中国大陸などにおける「発掘事業」が対象とされているが、植民地朝鮮における「発掘事業」に関与した考古学者や朝鮮総督府関係者(藤田や斉藤など)も不適格者となろう。

こうした規定を厳格に適応すれば、前回記事の鳥居は無論のこと、京大の小林あるいはあの和島すらも該当することになる。

「山西では日夜戦闘が行われている。今回の調査に於いても、情況の悪い処では軽機・擲弾筒を装備する皇軍一分隊及び中国側の県警備隊一小隊に衛られて出動し、然も尚、攻撃を受けたのである。警備に当られた皇軍将兵・中国警備隊に満腔の謝意を表すると共に、かゝる情勢の下にあって、山西文化昂揚のために、不急の事業と見做され易いかゝる基礎科学の調査を実施せしめられた現地駐屯軍当局、殊に上田参謀・金澤中尉・森永少尉・笠原嘱託及び調査班の方々に敬意を表するものである。」(和島 誠一1943「山西省河東平野及び太原盆地北半部に於ける先史学的調査の概要」『人類学雑誌』第58巻 第4号:18、1973『日本考古学の発達と科学的精神 -和島誠一主要著作集-』収録)

この文章からは、自分たちがなぜ「攻撃を受けたの」かについて、思いを巡らす気配は感じられない。このことについては、後日(15年後)「致命的」と回顧されることになった。

「大学教員の審査は、各大学の学部に設置された大学教員適格審査委員会によって行なわれた。文部省の記録によると、大学教員適格審査委員会は2万4,572名を審査し、そのうち不適格者は86名であった。駒井も審査対象者となったと思われるが、教職を去ることはなかった。この教職追放に関する法令は、1945年(昭和20)10月末から民間情報教育局と文部省との間で、さまざまな紆余曲折をへて何度も修正をかさね、46年5月3日に最終草案が提出された。民間情報教育局の提案はことごとく草案に盛り込まれたという。
ところで、軍事占領地で発掘を行なった考古学者を、教職追放の対象範囲にふくめるようになったのは、草案作成の最終段階と思われる。というのは、1946年(昭和21)4月24日の枢密院会議で教職追放の件が論議された際、添付された原案資料には、別表第一については第五項までが記載されていて、軍事占領地で発掘を行なった考古学者に関する第六項はなかった。つまり4月24日以降に第六項が追加された可能性がうかがえる。(中略)
戦時に中国で日本人の行なった調査の正当性を問う教職追放の別表第一第六項は、アメリカ先住民の墓地保護返還や、欧米諸国の博物館・大学にある文化財返還など、文化財の社会性に目を向けた現代的課題、あるいはオリエンタリズムのような新たな思想的地平にも通じる重要な問題提議であった。」(森本 和男2010『文化財の社会史 -近現代史と伝統文化の変遷-』彩流社:687-688.)

「日本考古学」の文脈で「勅令第263号 第六項」に触れた数少ない、おそらく最初の文章である。
しかし、なぜこの第六項が厳密に執行されなかったのだろうか?

歴史に「もし」は禁物だが、あえて問おう。
もちろん「適格審査」という二段構えにしても、勅令第263号に伴う第六項が文字通りになされていたら、戦後の「日本考古学」の風景は、現在とは確実に異なったものになったことだろう。
何せ1948年4月の「日本考古学協会創立時委員メンバー」の大半は、当該第六項のパージ対象者すなわち「不適格者」なのだから。
当事者たちは、当然自分が第六項に該当することを承知していただろう。第六項を含む教職追放令を報じる当時の新聞紙上では、「該当者に通知」と報じている(例えば『朝日新聞』1946年5月7日1面)。
しかしそのことをあえて明らかにする人はいなかった。そしてそのことを指摘する声もなかった。
全てなかったこと、知らなかったことにして、戦後の「日本考古学」はスタートしたのである。

だから「日本考古学」では、民主主義的傾向は強化されなかった。もし強化されていれば、1969年の「平安博物館事件」に対する対応も大分異なったものになったことだろう。
もちろんこうしたことは、何も「日本考古学」に限られたことではなかった。

誰が「第六項」該当者で、適格審査委員会でどのような弁明をして、どのような戦後を歩んだかを跡付ける学史研究は、未だになされていない。


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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

そもそも、ある人の主義主張について、例えば侵略主義者であるかどうかについては弁明の余地があるにしても、あるプロジェクトに参加したかどうかについては、弁明の余地はないのではないでしょうか?
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2019-09-14 06:45) 

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