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端尾・南田(考闘委)1974-75「日本考古学協会の発足」 [論文時評]

端尾 渡・南田 宗嘉(全国考古学闘争委員会連合)1974-75「日本考古学協会の発足 -協会解体のススメ-」『プロレタリア考古』第11号(第1回:上 1974-4/1):2・3、第12号(第2回:中 1974-5/1):4、第13号(第3回:中 その2 1974-6/1):2・3、第14号(第4回:中 その3 1974-7/1):4、第17号(第5回:下 1975-3/1):4
*第1回記事(第11号)の末尾には「今回担当・端尾 渡・南田 宗嘉」とあるが、他の記事は無記名である。表題と副題の関係についても、類推に基づく。北郷 泰道2007「1970年代の考古学 -そして「全ての発掘を中止せよ」-」『考古学という現代史』の『プロレタリア考古』記事目録:225.では、「協会解体のススメ」が表題とされている。

「…彼らは共通して(梅原、藤田、駒井など)「東亜考古学」研究と「資料保存(?)」こそが「我国文化再建の礎となることを固く信じて疑わない」としていることである。すなわち”戦争と科学” ”科学者の戦争責任”など、全く考えることもなく、戦前、戦中への”侵略略奪発掘”の成果を自画自賛しているのである。結局のところ、新しい日本の文化の建設とは、”天皇制”には全く触れない考古学の市民的地位の向上と侵略略奪発掘の賛美、正当化のことであった。」(第13号:3.)

45年前の『プロレタリア考古』に、前回取り上げた「勅令第263号」について言及した箇所があるかどうかを確認するために、改めて通読したのだが見出せなかった。恐らくその存在を知らなかったのだろう。当事者たちが口を噤んでいたのならば、戦後生まれの彼ら/彼女たちが知らなかったのも無理はない。しかし物事の本質を捉えた本論の記述に、全く影響はない。むしろ現時点で「勅令第263号」を加味することによって、当時の指摘が更に強化されるだけであった。

Ⅰ はじめに
Ⅱ 日本考古学協会成立への経過
 (a) 登呂遺跡調査会の結成
 (b) いま一つの流れ
 (c) 日本考古学協会の設立へ
 (d) 日本考古学協会の役割とその問題点
Ⅲ 日本考古学協会成立と諸問題
 (1) 戦後の社会情況
 (2) 戦後科学研究体制の再編成と日本考古学協会の成立
  (a) 敗戦直後の科学政策
  (b) GHQと科学体制再建政策
  (c) 人文科学委員会の発足と文部官僚 犬丸秀雄
  (d) 考古学界再編の2つの性格
  (e) 日本考古学協会成立の一つの意義(以上 第11号)
 (3) 戦後考古学の出発とその構造
  (a) 文化日本の建設と登呂発掘
  (b) 当時の”大物”研究者発言集
  (c) ”大物”研究者意識の構造(以上 第12号)
  (d) 戦後考古学の出発と研究者の位置
  (e) 文化日本の建設と考古学のイデオロギー的位相
  (f) 日本考古学協会成立のもう一つの意義(以上 第13号)
 (4) 考古学への「国民」的関心の高揚と日本考古学協会の成立
  (a) 天皇制ファシズムの崩壊
  (b) 「国民」の「考古学」への期待とは…
  (c) ”旧歴史学”の反撃と科学的歴史学
  (d) 協会のもたらしたもの(以上 第14号)
Ⅳ まとめ
 (1) <協会>成立を検討する視点をめぐって
 (2) 日本考古学協会の成立とその構造(以上 第17号)

「…その合理性、実証性のイデオロギー的レベルは、天皇制イデオロギーに積極的に迎合するか、天皇制イデオロギーに対して何の疑問も持たないような、魚が水をふだん意識しないように、全く政治意識を解体され切った思想性を基礎にしたものであったのである。(中略)
…<天皇制>と<神話>と考古学、戦争と考古学との関係など、自らを問い直すことなく、逆に旧支配階級の研究者たちは”侵略発掘”賛美の上にたった平和的文化的天皇制国家論のような<新日本文化建設>をスローガンに戦時科学動員のなかで実現しなかった全ての研究者の組織化という”挙国一致”した研究者組織=「協会」を設立させ、新たなる社会的経済的諸関係のなかで「総合・共同調査」など、それまでの利害の固定化ではなく拡大を意図していたといえる。」(第13号:3.)

こうしたある学会組織の創立時の経緯を検討する中で導き出された半世紀前に提出された分析とその見通しの確かさについては、ここ十年ほどにわたって当該学会に対して提起された文化財返還問題への対応によっても、見事に裏打ちされたと言い得るだろう。
すなわち会員からの要望については「現代政治的問題が絡む」とか「国政レベルでの事案」などの理屈で棚上げしておきながら、政府からのアイヌ遺骨の返還についての要請については会員との議論もなくすぐさま理事会レベルのみで意見を表明するといったあからさまな会員軽視の閉鎖的な体質についてである

『プロレタリア考古』掲載の記事に代表される当時の問題提起については、「一つも的外れの「問い」はなかった」(北郷2007前掲:194.)と回顧されている。
私も概ねそのように思う。その先見性について世界考古学会議(WAC)との対比などによって論じてみたい。

「当時の私たちの想いは「革命的敗北主義」で、たとえ今は孤立してでもたった一人になっても闘いを貫徹する、そしてこれは、一時的に敗北しても、必ず少なからず心ある大衆を捉え、この中から後に続く者が出るー私たちの敗北は「一時的」ではありませんでしたが、このように後の世代に多少なりとも影響を与え意義のあるものだったと考えています。<敗北における勝利>と私なりに総括しています。」(松岡 利康2017「あとがきにかえて」『遥かなる1970年代 -京都 学生運動解体期の物語と記憶-』鹿砦社:300.)


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白川ただし

考闘委が提起し、闘った課題は今日に引き継がれなくてはなりません。
日和見を決め込み、やり過ごした課題は、必ず形を変えて再起してきます。遺骨や文化財の返還問題、その責任問題がそれです。被害者、差別されてきた者たちが声を上げていることが重要です。研究者は、こうした声、主張にもっと向き合うべき。そして研究の意義を捉えなおし、諸民族、働く者たち、地域住民と協同の取り組みを目指していこう。
by 白川ただし (2019-09-23 05:51) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「闘う」ということは、どのようなことなのか、といったことについて考えています。ある人の一生を振り返ったときに、この人はいったい何かに対して「闘った」ことがあったのだろうかと考えることがあります。「闘った」ことがない人にとっては、「この世」は「闘う」必要性がない、十分に満たされた充足した社会だったのでしょう。結局、「この世」の中は、「この世」を少しでも良くしようと「闘う」人たちと、そのようには思わない「闘わない」人たち、むしろ「闘わない」ことによって「闘う」人たちを圧迫する人たちで出来ているように思われます。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2019-09-23 06:40) 

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