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大庭1995「李亀烈著 南永昌訳 『失われた朝鮮文化』」 [論文時評]

大庭 重信 1995「李亀烈著 南 永昌訳『失われた朝鮮文化 -日本侵略下の韓国文化財秘話-』」『考古学研究』第42巻 第2号:116-118.

「「失われた」朝鮮文化財は、戦後50年を経た今でもその多くが日本の各所に残されたままなのである。残念ながら、このような事実について、日本社会での関心は非常に低いといわざるを得ない。」(116.)

終活に向けて身辺整理をする中で見出した文献である。今まで気付かずに漏れ落ちていた。
書評対象である刊行物の訳者の遺稿集に追悼文を寄せた際にも言及することができなかった。

「著者の主張の中で特に重要と思われる2点について紹介」(117.)されている。
「まず第1に、多くの盗掘者や骨董ブローカーが侵略下の朝鮮で暗躍した背景には、彼らに活動の場を与えた植民地支配の構造があったという点である。」(同)
「第2に、朝鮮文化財の略奪や盗掘は、単なる窃盗行為ではなく、朝鮮の伝統的な文化や社会規範を破壊するものであったという点である。」(同)

何れも的確な指摘である。

「戦後50年を経た現在、誤った歴史観のもと朝鮮を植民地支配下におき、文化財を略奪したという過去を、考古学にたずさわる者としてどのように考えていかなければならないのであろうか。それは、朝鮮考古学の問題としてのみではなく、日本考古学の問題としても考える必要があろう。」(同)

「朝鮮考古学」と「日本考古学」がまったく別個のものとして考える考え方が「第1考古学」的発想である。
「日本考古学」が「日本国の領土における日本人考古学者によってなされた考古学的営為」と考えるならば、1910年以降における朝鮮半島でなされた考古学的営為は紛れもなく「日本考古学」であり、そこに「朝鮮考古学」が存在する余地はなかったのである。

「最後に、日本に残されている略奪文化財について。近年の世界的な動向として、先住民族・少数民族のアイデンティティを尊重しようという動きが高まっている。欧米を中心とした考古学でも、アメリカインディアンの人骨再埋葬の問題や、帝国主義時代の略奪文化財の扱いについての議論が盛んである。返還に前向きな意見や、人類共通の文化遺産として相互理解のために活用すべきだという意見など、積極的な議論が交わされている。朝鮮の問題とは質的に異なるが、このような議論の内容を参考にすることも、今後の解決の糸口になるかもしれない。」(118.)

30年前に記された文章であることを考慮しても、いささか首を傾げざるを得ない箇所である。
「帝国主義時代の略奪文化財の扱い」と「朝鮮の問題とは質的に異なる」とは、どのように「異なる」のであろうか?
「このような議論の内容を参考にする」といったことではなく、まさに書評対象とした書籍の内容はそのことそのものではなかったのではないか?
「今後の解決の糸口になるかもしれない」どころか、「こうした議論の内容」そのものであり、そうした議論を経なければ解決には至らないのではないか?

原著(『韓国文化財秘話』韓国美術出版社)が刊行されたのが、1973年である。その元になった新聞記事(『ソウル新聞』特集企画記事)は1972年に連載されている。
書評対象となった日本語訳本が刊行されたのが、1993年である。そして今回の書評が、『考古学研究』という専門誌に掲載されたのが、1995年である。
訳者の南 永昌さんが亡くなったのが2019年で、追悼遺稿集が出版されたのが2020年である。

半世紀前の点と四半世紀前の点が結びついて現在に至っている。
本書評に対しては遅ればせながらの応答であるが、応答することで3つの点を結び付けておきたい。



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