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酒井編2024『グレーバー+ウェングロウ『万物の黎明』を読む』 [全方位書評]

酒井 隆史 責任編集 2024『グレーバー+ウェングロウ『万物の黎明』を読む -人類史と文明の新たなヴィジョン-』河出書房新社

・はじめに 「リアル・フリーダム」を再発見するために(酒井 隆史)
・グレーバーと『万物の黎明』について知っている、5、6くらいのことがら(酒井 隆史)
・原初的自由(デヴィッド・ウェングロウ)
・史遊び -『万物の黎明』の一書評-(ダニエル・ゾラ)
・黎明の閃光 -デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの人類新史-(サイモン・ウー)
・狩猟民の知的能力の高さに憧れる私はバカなのだろうか(角幡 唯介)
・まるいピトビトは泥団子の何万年(鳥居 万由実)
・なんというアブダクション! なんというファビュラシオン!(白石 嘉治)
・アメリカの小父さん(早助 よう子)
・ポスト人新世の芸術における想像力と創造性(山本 浩貴)
・『価値論』から『万物の黎明』まで -社会創造の自由-(藤倉 達郎)
・未来の空 -多様性の苗床になるための人類学-(大村 敬一)
・グレーバーの人類学が残したもの(松村 圭一郎)
・自由と歓待 -文化人類学的探究-(佐久間 寛)
・考古学にとっての『万物の黎明』、その接続・影響・未来(溝口 孝司、瀬川 拓郎、小茄子川 歩、酒井 隆史)
・『万物の黎明』を少しだけ読み換える -<サピエンス>が<ハイアラーキクス>になってしまったことの(非必然的)条件-(溝口 孝司)
・王・奴隷・バッファ -アイヌ社会における抑圧と友愛の歴史-(瀬川 拓郎)
・「文明」論としての『万物の黎明』(小茄子川 歩)
・『万物の黎明』から新しい哲学がはじまる(近藤 和敬、森 元斎、酒井 隆史、早助 よう子)
・物語からくつがえす -『万物の黎明』が拓く可能性-(阿部 小涼)
・不定称の思想史と歴史的アナルケーイズム(李 珍景)
・出来事への想像力を奪回するために -『万物の黎明』と(反)革命の社会理論-(山下 雄大)

「チャイルドが20世紀の危機のただなかで提示した「新石器革命」論(そして都市革命、産業革命をあわせた三つの革命論)のインパクトは巨大であり、その認識は一個のパラダイムとなってその後のわたしたちの人類史観を支配してきた(ハラリは、新石器革命以前に認知革命を追加した)。百年後の二人の著者がこのタイトルに込めたのは、そのチャイルドの「ヒューマニズム」、すなわち人間を人間自身の集合的プロジェクトとみなすというチャイルドの精神への深い敬意である。そして、その精神をもって現代までに積み重なった知的発見を検証し直してみたらどうなるだろう? その「革命」史観のほとんどは、変わらなければならない。」(酒井:3.)

チャイルドの「新石器革命」をひっくり返すというのだから、まさに「革命」的作業である。
その提示された「成果」を訳者が中心となって、主に人類学、考古学、哲学・現代思想、そして海外書評の翻訳ほか詩人・小説家・フランス文学・美術史など各方面からの応答で構成されている。
ここでは主に考古学からの応答を中心に紹介してみよう。

「私は、考古学が『万物の黎明』にただしく接続することによって、スタックしてしまった理由が明らかとなり、考古学がもつ本来的な「力」や可能性にもあらためて光が照射されるものと感じています。」(小茄子川:156.)

西アジアを専門とする司会者(小茄子川)によって社会考古学(溝口)・アイヌ考古学(瀬川)そして訳者(酒井)による討議がなされている(154-187.)。『万物の黎明』がなければ、この3人の考古学者が一堂に会するということもなかっただろう。

司会者の言う「考古学がもつ本来的な「力」や可能性」とは、どのようなものだろうか? 
考古学世界の外にいる訳者からは「考古学の展開が人文社会科学一般におおきな影響をもたらすという感じではない」(酒井:30.)あるいは「日本の考古学が一般的に話題になるときって、最近では、そういうめざましい進展よりも「土偶問題」とか、スキャンダルめいたことが多くて、不幸なことだとおもいます」(酒井:31.)と「土偶を読む」騒動に触れつつ冷静な評価が示される。

「考古学者は、いわゆる「新進化主義(Neo-Evolutionism)」の枠組みに則って人類の歴史を語ることに慣れ親しんできました。(中略)…私たち考古学者・人類学者は時空間的な環境と物質文化と、社会構造・システムとの共変動/相関関係の変容の軌跡としてモデル化し、その軌跡に観察される諸段階を、ある種分類的に、また人類社会の「発展段階」として扱ってきたわけです。ところがグレーバーとウェングロウはそれを見事に打ち壊す。」(溝口:157.)

「打ち壊された」のは「新進化主義」や「発展段階論」そして「唯物史観」(瀬川:162.)・「目的論的な進歩史観」(小茄子川:164.)など、すなわち私たちが考古学を語るときに背骨としてきた考え方(例えば最近では勅使河原2024など)である。
しかしまだ「打ち壊されていない」ものが「日本考古学」にはあるという。何か?

「考古学の教育におけるこの「メタな理論的議論」、すなわち「どういう世界を作るためにどういう学問をするのか?」という議論の領野を、我々はどのように真剣に構築するのか。このようなメタ理論的議論について、残念ながら日本考古学にはそのようなレベルの議論に対する嫌悪感、警戒感、実質的な反感が習慣化、身体化を経て内蔵されているところがあります。そういう部分をぶち壊さないといけない。『万物』に込められたグレーバーとウェングロウの「生き方」にもとづくメッセージは、そのような日本考古学変革のプロジェクトの力強いツールになるのではないかということを最後に申し上げておきたいと思います。」(溝口:161.)

「身体化を経て内蔵されている」こと、すなわち私から言えば「第1考古学」至上主義を「ぶち壊す」というのだから半端でない。しかし『万物の黎明』には、そうしたポテンシャルがあるという。私もそう思う。

「やっぱり日本の社会それ自体もそうですが、知的社会もそれに同期して、世界でも突出して「閉塞」してるとおもうんです。人文学もたいてい、「別の世界なんてない」「適応しよう」という「あきらめ」のメッセージを、いつも発していますよね。日本語圏で知的活動をやるとき、それを自覚していないと世界がいまどういう状態にあるのか、見失うと感じるんですよね。」(酒井:172.)

本書も世界に放たれた書に対する「日本語圏」という一部分からの応答である。世界のアチコチから、インドネシアから、ルーマニアから、メキシコから、そしてマダガスカル!からもこうした応答がなされていることだろう。

「そして最終的に、本書の「人間的であること」へのこだわりをどう受け止めるべきだろうか。多くのアーティスト、学芸員、学者が、自分たちの仕事のなかで「人間を脱中心化」しようと躍起になっている今、『万物の黎明』は、人類が何であったか、何であるか、そして何になりうるかという、問いの束を再構成するという(はるかに困難な)仕事を私たちに促している。本書の結論において、グレーバーとウェングロウは、「どのようにして私たちは閉塞したのか」という最初の問いを、別の問いに言い換えている。すなわちどのようにして最終的に暴力と支配にもとづく関係が正常化されるようになったのか。著者たちによる人間の大らかな復権はこう示唆している。私たちに必要なのは、人間という概念を超越することではなく、むしろいにしえの者たちを記憶することなのかもしれない。」(ウー:85.)

ウクライナで、ガザで、アメリカ・コロンビア大学で「暴力と支配にもとづく関係」が展開されている。
<もの>から「黎明」を探るのが考古学であるのならば、あらゆる<もの>の黎明を探る本書に無関心な考古学者とは何者なのだろうか。

「…紋切り型の記述がリアルタイムで再生産されている事例に欠くことのない現状は、われわれの革命観を無意識に規定する自由主義的進歩史観がいかに根強いかを証し立てている。」(山下:272.)
「権力奪取を志向せず、民主主義に基づいた自己組織化を目指すという革命の定義は、いささかナイーヴに響くかもしれない。実際に、彼はとりわけ20世紀の人類が囚われ続けた革命の戦略をめぐる喧々諤々、例の「主体」や「組織」を云々する気の遠くなるような議論からはっきりと距離をとっているようにも見える。楽観的、この言葉にどのような意味を含ませるにせよ、そう捉えても間違いではないだろう。少なくとも著作の次元では、グレーバーは自律や相互扶助といったアナキスト的原理を可能にするために肯定すべき、あるがままの人間本性に対する信頼をけっして捨て去りはしなかった。」(山下:281.)

「グレーバーはいつだったかわれわれの路上生活者向けの炊き出し、もとい共同炊事にやってきたことがある。登場があまりにさりげなかったので、印象は薄い。当時われわれは、メシを食いにきた人にアルミ缶を拾って持ってくるよう頼んで、それを売って食費の足しにしていたのだった。大川端の高速下で、連れてこられた風のヨレヨレの服を着たグレーバーは皆に混じり、何かとても楽しげに、ニコニコとアルミ缶を踏み潰していた。それを遠見に見つつ、「なにがそんなに楽しいんだろう」と訝しんでいたが、私は、大恩人とすれ違っていたのだった。」(早助:99.)


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