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型式論再考 [総論]

「もちろん、人間の手工品であるかぎりどれをとっても二つが完全に一致することはまずない。一貫した流れ作業で規格部品を組み立ててつくられる自動車の場合でさえ、その買手は買おうとする最新式の車の性能に、一台一台面くらうような差があることに気づくだろう。」(V.G. チャイルド(近藤 義郎・木村 祀子 訳)1969『考古学とは何か』岩波新書703:8.)

何の問題もない第1文に引き続いて記される第2文について、問題はないだろうか。
「一貫した流れ作業で規格部品を組み立ててつくられる自動車」を「手工品」と同様に評価することができるだろうか。
たとえ1950年代のイギリスの「最新式の車の性能に、一台一台面くらうような差がある」としても、その車を組み立てている「規格部品」について「面くらうような差がある」とは思えないのだが。

「私たちがここで一つの「型式」として認めるのはネジ一般ではなくて、ただ「六角形で5/8インチ云々」のネジである。私たちにとっては、この細かな特徴に合致するネジはすべて同じものであり、型式の一例にすぎない。考古学者はこのように特定形式(改訂新版1981では「特定の型式」に変更されている)に属する個々のネジ間の差異には少しも興味を示さないが、おそらく読者にしてもそうだろう。」(V.G. チャイルド(近藤 義郎 訳)1964『考古学の方法』河出書房:15.)

むしろ「規格部品」である「ネジ」については、「面くらうような差がある」どころか、「個々のネジ間の差異には少しも興味を示さない」のである。

そもそも同型式として作られた近現代製品群においてそれぞれに多少の差異があったとしても、それは同型式として扱われる。「どれをとっても二つが完全に一致することはない」先史資料をまとめ上げる先史型式とは、根本的な原理が異なるのだ。

「同様に、ナイフの流行は時につれ変化したが、イギリスで使われたナイフのうち、たとえば1950年、1750年、1250年、250年、紀元前250年といったように、ある一定の時期のものであれば、どれ一つをとってもその当時のごく少数の標準型式のうちのどれかに確実にあてはまる。」(V.G.チャイルド1969:8.)

標準型式を説明する文章であるが、1950年のナイフと紀元前250年のナイフを同列に扱うことができるだろうか。
ここで述べられている「ナイフ」が仮にすべて金属製の「ナイフ」だと仮定しても、鍛造と鋳造では<もの>としての扱われ方(型式の構造)は異なるのではないだろうか。

卑近な例で言えば、縄紋土器のような先史土器型式と部材である瓦型式は、まったく同じと言えるのか、ということである。
一個一個が手作りの「手工品」である先史土器と型枠を用いて同じような「規格部品」が大量に産み出される瓦とでは、その個々の製品に対する型式の相互関係、すなわち型式構造が異なるのではないか。

「…考古資料個々の物的特徴は千差万別で、ひとつとして同じものはない。」(近藤 義郎1976「原始史料論」『岩波講座 日本歴史25 別巻2 日本史研究の方法』岩波書店:24.)

ここで言われていることは「手工品」には当て嵌まっても、大量生産を旨とする型枠製品については当て嵌まらないのではないか。

私たちが考えていた瓦や金属製品などの型枠製品の型式は、個々の製品を通して直接組み上げられた概念ではなく、個々の同じような製品を産み出したいくつかの型枠を通した型式だったのではないか。



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