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日本考古学協会創立時委員メンバー [学史]

「1948年4月2日東京国立博物館大講堂で、日本考古学協会設立総会が開催され、ここに正式に協会の設立がなされた。
藤田亮策先生が、委員長になり、次の10人の委員が選ばれた。
梅原末治・後藤守一・駒井和愛・八幡一郎・斎藤忠・江上波夫・水野清一・石田茂作・山内清男・杉原荘介(『日本考古学年報』1の掲載順による)」
(斎藤 忠1998「初代委員長藤田亮策先生を憶う」『日本考古学』第6号、日本考古学協会:208.)

藤田 亮策(1892-1960)「朝鮮、満洲、蒙彊、樺太、台湾の考古学的または人類学、民族学的調査は、日本人によつて開拓されて立派な成果を挙げてきたものであつて、他の如何なる点に非難があびせられようとも、考古学的研究とその研究資料保存の業績だけは、永久に世界に誇り得るものと信ずるからである。」(藤田亮策1951「考古学一般」『日本考古学年報』第1号、日本考古学協会:5.)

梅原 末治(1893-1983)「考古學が古物を解釋する學問だとする為政者の誤った考えからして、實は過去十数年の激しかつた政治の學問に對する強壓下にあつて、この學ではさして研究上の自由を奪われることなく、関係者が基礎的な調査なり研究を続けることが出来たばかりでなく、一面強行された政治勢力の大陸なり南方への進出に便乗して、その活動の範囲をば是等の地方に及ぼした結果、今日では同地域ののこされた文化事業のやゝ見るべき業績の一とも言うべき趣をすら呈しているのである。彼の朝鮮並に南満洲に於ける我が考古學上の調査研究の廣い東亞考古學の成立への寄与の如きはその好例とせられる。」(梅原 末治1947「現下の日本考古學 -その展望と将来の課題-」『人文』第1巻 第2号、人文科学委員会:45.)

後藤 守一(1888-1960)「…よしや先史時代の如く、文化の発達の低い時代に遡つても、吾吾日本人の祖先はそこに秀れた精神を発揮してゐる。成程さすがは吾吾の祖先だと言ふ様な姿ばかり示してくれてゐる。肇国以来二千六百有餘年間、國史に示してゐる日本人の秀れた精神も、又物質文化発展に對する努力も、この先史時代人の子孫なればこそと、心からの讃仰をおさへることが出来ない。そしてその遠い子孫の人人が吾吾なのである。つまり日本人を知り、自分を知る、國史の精神を知り、嚝古未曾有の今日の大業を達成する上に、確固たる吾吾の精神を形づくる為に考古學が必要なのである。そして日本考古學だけが、その目的に向かつて進むことができるのだと思ふ。欧米の考古學とは全く異つた使命を吾吾の日本考古學研究が持つてゐるのであると信じる。」(後藤 守一1943『先史時代の考古學』績文堂:2.)

駒井 和愛(1905-1971)「さきに昭和の初めに王盰墓の封土が復原され、なかの木槨の様子もわかるように施工されていて、その後になって彩篋塚が移築されたことはいま記した通りであるが、さらに楽浪郡治址の40ヘクタールにも及ぶ場所も、楽浪公園として造成するための費用の計上され、さきに述べた歩道や井戸そのほかのものが実地に見られるように計画されていたのである。おしいことに実現をみないうちに昭和20年になってしまった。」(駒井 和愛1972『楽浪 -漢文化の残像-』中公新書308:35.)

八幡 一郎(1902-1987)「「明治時代の中国、朝鮮の美術考古学の調査、発掘が、日本帝国主義の大陸への足どりと結びついていたのは周知のことである」そうだ。日本人として、日本の考古学者として、そうでないとはいわない。しかし、それだからどうだというのだ。そのころはロシアは大シベリア攻略を完成しておって、さらに満洲、朝鮮を手中に収めんとし、ロシア考古学者もその踝に従っていた。このことは、諸君陣営では全く知らないか、知っていても素知らぬ顔である。」(八幡一郎1956「冒涜せられたる考古学」『人文学舎報』拾五)

斎藤 忠(1908-2013)「慶州の地を愛し、遺跡に融けあい、そして多くの人びとに、ことに発掘の作業の人びとや、その周辺民家の人びととも心から親しくしたり在りし日の生活は、今なお記憶に鮮明なものがある。その後、しばしば慶州の地を訪れたが、当時の友人たちは「先生、お里帰りですね」と微笑して迎えてくれる。文化財の観覧施設も、案内の人が「昔の慶州博物館長です」というと、笑顔でもって接してくれる。それは、国と民族とを超越した人びととの心と心との交わり、文化財の保存へのひたむきの努力をなしたことへの、韓国の人びとの私に対するあたたかい報償のように思われてならない。」(斎藤 忠2002『考古学とともに七十五年』学生社:71.)

江上 波夫(1906-2002)「街の辻々には万宝山事件に関して激越な排日的言辞を弄した伝単が貼ってあって、我々はそれによって初めて満洲に、何か日支間の重大事件の勃発していることを知った。そこで通遼の満鉄公所に挨拶を兼ね、事情を聴くべく立ち寄ったが誰もいなかったので、止むなく我々自身で通遼の軍憲及び税官吏が山のような我々の携帯品に干渉してこれを抑留あるいは没収しないように、対策を考えねばならなかった。実に今回の蒙古旅行の成功と不成功とは、蒐集品を無事に搬出し得るか否かの一点にかかっていた。」(江上 波夫1937『蒙古高原横断記』:197.)

水野 清一(1905-1971)「わが國の學者は明治以来敗戰のその日まで、終始東亞考古學のために力をつくしてきた。もちろん學者も、そのときどきの政情からまつたく超然たることはできない。そのためおほいに困難したときもあり、また反對に利便をうけたときもあつた。けれども、それらはしよせん、べつのことがらである。學術そのものとは、なんのかゝはりもない。わが國の學者たちは、概してさういふものからはなれ、純乎として學術の要請するところにしたがひ、まじめな努力をつゞけ、また公正な行動をとつてゐたやうにおもふ。たとへば、その古蹟を保存し、遺物の散佚をふせぐについても、つねに眞劍な努力がはらはれたことは、だれの眼にもあきらかなところである。いま四十年の足迹をかへりみて、先人のため、またわれわれみづからのためにひそかによろこぶものはこれである。」(水野 清一1948『東亞考古学の發達』大八洲出版:157.)

石田 茂作(1894-1977)「慶州博物館は、まだ近年開館せられた許りである。聞くところによると、邑民等の祖先の偉業を保存し度いとの熱心から、彼等に於いて多少に拘らず寄付を募り、集つた金一萬圓を基金として、此の博物館が誕生したのだと。これ迄内地にも郷土博物館の必要をひそかに提唱し來つた私は、此の鮮人等の行為に對していたく敬服した。さうして内地の、目前の利益名誉のみ奔走する我利々々連中にも、此の鮮人の見上げた考へを教へてやり度いと思つた。」(高橋 健自・石田 茂作1927『満鮮考古行脚』雄山閣:18.)

山内 清男(1902-1970)「考古学の資料として我々は遺跡遺物を観察する。しかし総ての遺跡遺物又はその記録は万人一様に開放されては居ない。これらの遺跡遺物の研究に当つて色々な操作をするが、しかしその操作は人によつて違つて居る。そして結局資料から何を学び取るか、に至つては著しい個人差があると見なければならない。一方に日本考古学の組織を強化しようとする傾向と共に、大胆にこれを否定する自由も保留されて居る次第である。」(山内 清男1936「日本考古学の秩序」『ミネルヴァ』第1巻 第4号:1.)

杉原 荘介(1913-1983)「去る八月日本考古学会の代表者である原田淑人博士と日本古代文化学会の代表者である後藤守一教授と所用にて談合せられる機会を得たので、此の機会を喜び両先生に学会合併の内意をお伝へして此の意図を諮つた。両先生とも其の趣旨に賛成され、久しぶりに和かな談合が行はれたことは陪席した私の目頭を沽ほした。然し、両先生とも此の問題に関しては夫々学会の幹事会に諮られてから確答するといふ御返事であつた。」(杉原荘介1947「日本考古学界の現在」『歴史学研究』第125号:50.)


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からす天狗

このところの記事で、「日本考古学史研究の課題」を、今さらながら改めて認識することができました。
by からす天狗 (2016-05-15 15:38) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「文は人なり」 その人の書いた文章の積み重なりが、その人の生き方そのものである、という当たり前のことを、私も改めて感じています。こうした些細な文章までもが!!
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-05-15 21:12) 

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