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高崎2002、そして大坂金太郎 [全方位書評]

高崎 宗司 2002 『植民地朝鮮の日本人』岩波新書790

「元在朝日本人の朝鮮時代への対し方には、大きく分けて三つのタイプがあるようである。第一のタイプは、自分たちの行動は立派なものだったとするものである。第二のタイプは、無邪気に朝鮮時代を懐かしむものである。そして、第三のタイプは、自己批判しているものである。」(201.)

日本考古学協会の創立時委員メンバーに引き寄せて考えると、差し詰め第一のタイプは藤田氏、梅原氏に、第ニのタイプは斉藤氏が該当する。
その他に、第四のタイプとして学問にのみ専念したとする駒井氏、江上氏が、第五のタイプとして開き直るものとして八幡氏が該当しそうである。
第三のタイプとしては、創立時委員には加わらなかった和島誠一氏などが挙げられるであろう。

「大坂金太郎は、日露戦争前の北海道で、ロシアの朝鮮半島進出を憂い、日朝連帯のために朝鮮語の勉強をしていた。そして、07年、ロシアとの国境に近い咸鏡北道の会寧普通学校に赴任した。大坂は、「食生活をゆたかにしてやりたい」と考え、札幌から馬鈴薯や、とうもろこし・かぼちゃの種子を取り寄せて普及させた。一時は道書記に転出したが、30年まで、各地の公立普通学校長として活躍し、後に慶州博物館の館長になった。あわせて、朝鮮人女性の識字教育に携わった。大坂六村の名で『慶州の伝説』『趣味の慶州』など、新羅の古都・慶州の文化を紹介する著作も残している。なお、大坂と結ばれた錦織マサは、07年に朝鮮に渡り、最初は日本人児童を教育したが、まもなく普通学校女子部の主任となった(森崎78年、84~87年)。
39年ころ、慶州の小学校に通っていた森崎和江は、大坂の家のそばを通ったときに友人がこう言ったことを記憶している。「この家の人、変人よ。朝鮮人が好きなの、日本人よりも。朝鮮人の味方をするのよ。オモニを集めて、字を教えたり裁縫教えたりして、自分も朝鮮服着るのよ。だからね、日本人たちはつきあわんようにしてるの」(84年、122)。」(100.)

植民地考古学者に、こうした「村八分」状態の人物がいたことを知っただけでも安堵を覚える。
大坂氏については、「日本考古学」でも殆どその人となりは伝えられていないだけに。

「別に、慶州博物館を事務所にして慶州古蹟保存会があった。普通学校の校長をやり、私の赴任前にやはり博物館の館長をされた大坂金太郎氏(六村)が関係し、崔南柱氏が仕事をやっていた。大坂氏には『趣味の慶州』や『慶州の伝説』などの著書があり、これらは、いまは古典的な本ともなっている。崔氏も仕事熱心な人であり、慶州の古蹟の調査や保存に力をつくした。前慶州博物館長の諸鹿央雄氏も、慶州の町で羽振りをきかせていた。」(斎藤 忠2002『考古学とともに七十五年』学生社:59.)

当時は「変人」とされた人が、後には高く評価される。
あるいは「無邪気に朝鮮時代を懐かしむ」とされる。
あるいは「羽振りをきかせていた」とされる。
人は、それぞれ時代に翻弄されるものだが、そうした中にあって、どのように身を処し、どのような言葉を遺すのか、考えさせられる。

「先生は朝鮮人の民家を借り自炊生活をした。日本人は二十人くらいいた。そのほとんどが独り身で南朝鮮やウラジオストック方面で事を起して追放された男であった。
この会寧で知り合った朝鮮人のなかで、先生は金 鉄中を忘れることができない。先生が赴任した翌41年の冬、11月であった。朝鮮家屋で自炊生活をしながら教監の仕事をし、一方で咸鏡北道史をまとめようとしていたときのことである。清国との国境の豆満江はすでに凍っていた。夜おそく戸をたたく者がいる。一人二人ではないけはいである。
「誰か」
「先生、わたしどもです。金 鉄中です。あけてください。」
戸をあけてみると5人の青年がふとんをかかえて立っている。朝鮮のふとんは薄い。あたたかなオンドルに敷いてくるくると体に巻きつけてねる。若者たちはめいめい丸めたふとんを腕にしていた。
「なんだ、ふとんかついで」
先生の朝鮮語は渡韓前に学習してある。
「先生がお一人で退屈だろうと思って泊るつもりで来ました。」
それはよう来た、と若者たちを招じ入れ談笑し、ともに寝た。翌日も翌々日も来る。咸北史をまとめようとしている時でもあり、茶菓子を用意して、昔話などをたずねたりした。若者たちは昼間は引き揚げる。一週間たつと他の五人と交代した。(中略)
どうも様子がおかしいと思う。日本人を警戒してふつうは近づかぬものを、連夜やっていくる。尋ねると、先生が退屈でしょうから、というだけである。
あるとき衛戍病院に遊びに行き、病院長に「毎晩生徒が泊りに来るのだが、校長は知っているのかな」というと、「君は何も知らんのか、のんきなものだ」といい、君の首に350円の賞金がかかっている、といった。豆満江が凍ると対岸から排日匪賊がやってくる。どこからでもやってくる。彼らは、師団長500円、連隊長400円、朝鮮人を日本化する日本人教師に350円の賞金をかけてねらわせていたのだった。
が、生徒たちは何もいわぬ。一週間交代で二ヶ月あまり、身辺の用心のために泊り込んだ。その指揮者が金 鉄中であった。
金 鉄中は、そののち「万歳事件」のときに憲兵によって殺された。すでに先生が慶州に転任していた時のことで、鉄中の死は彼の弟、錫中の手紙によって知らされた。鉄中は憲兵に引っぱられ、「朝鮮人ですから、独立運動にさんせいです」と答えて、豆満江の川原で首を切られたのだった。」(森崎 和江2009「ある朝鮮への小道 -大坂金太郎先生のこと-」『森崎和江コレクション -精神史の旅-』:71-72.)


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流じゅーざ

仏国寺の無影塔に関わる伝説を調べるうちに大坂金太郎氏にたどりついてお邪魔しました。
日韓併合時代の朝鮮の状況の研究の多くが埋もれていたり、その後の研究成果が日本に知られていないことが多いので参考になります。
また遊びにまいります。

流じゅーざ
by 流じゅーざ (2018-05-28 22:43) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「関野貞の報告では多宝塔の四隅に石獅子があったが、保存状態の良い2躯は日本へ搬出されたという。しかし諸鹿央雄の1930年の記録によれば、4躯の多宝塔石獅子のうち3躯が無くなり、たった1躯だけが仏国寺為祝殿の東南隅の軒下にあるとして、違いをみせる。1904年に関野が記録した『韓国建築調査報告』に載った写真では、少なくとも2躯の石獅子が確認され、3躯が無くなったという諸鹿の記述は、関野の最初の報告以後1躯が更に盗難に遭ったことを物語っている。1904年の関野の報告以後、諸鹿の講述のあった1930年以前の、どこかの時点で消えたものと推定される。」(姜 熺静2015「(慶州仏国寺)多宝塔の石獅子」解題」『韓国の失われた文化財』黄 壽永編、三一書房:381.)
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2018-05-29 17:10) 

流じゅーざ

関野博士の写した写真では確かにどうみても四隅に全部置いてあったとは見えないんですよね。
関野博士の訪問時に3体しかなかった、というのは朝鮮総督府の『朝鮮宝物古蹟図録 第1 仏国寺と石窟庵』1938年に書いてありますが、1936年に発行された中根環堂の『鮮満見聞記』には3体が持ちだされて1体がパリの博物館に、1体が上野精養軒に、もう1体は行方不明となってます。この辺はこの時点でもう食い違いがありますね。
なお持ちだしたのは関野博士が「邦人某」と書いているのと、同じ上野精養(西洋)軒に「某氏」が持ち込んだ仏国寺の毘盧殿前の石燈が展示されていたことを考えると同じ人物の仕業の可能性もあるかな?と。その場合は石燈同様「盗まれた」のではなく「売られた」可能性もあるかと思います。
(´・ω・`)まあ後でもう一度書くつもりだったんですが…
by 流じゅーざ (2018-05-30 01:25) 

gerty1117

ながさわです。大阪氏のことを調べていて、ブログにたどり着きました。
ブログってこんなふうに役に立つんですね。時間をとって読書録を丁寧にまとめていただき、ありがとうございます。
by gerty1117 (2024-02-11 17:26) 

五十嵐彰

「いうまでもなく植民地支配民族は、そのままでは自由になれない。植民地支配民族たることを否定してのみ、自由になれる。われわれ日本人は、過去・現在・未来にわたる日本の植民地主義を自ら否定しなければ、自由な人間にはなれない。」(旗田 巍1966「日韓問題はおわっていない -植民地主義否定からの出発-」『NOMAプレスサービス』第66号)
by 五十嵐彰 (2024-02-12 20:19) 

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