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伊藤2003「<紹介>『文家屯』 [考古誌批評]

伊藤 淳史 2003「<紹介>遼東先史遺跡発掘報告書刊行会編『文家屯 一九四二年遼東先史遺跡発掘調査報告書』」『史林』第86巻 第1号:130-131.

2002年に京都大学人文科学研究所考古学研究室で発行された書誌に対して、京都大学大学院文学研究科内に置かれている史学研究会の定期刊行物に掲載された書評文である。

「調査後に資料は京大文学部に運ばれたものの、敗戦の混乱や氏(澄田正一氏:引用者)の異動と逝去により整理作業の中断や流転を重ねた経緯を知るとき、散逸させることなく資料を守り、刊行に向けた作業も進めていた氏とその門下の研究者の方々には、おおいに敬意を表したい。
若き発掘者のすぐれた問題意識と記録は、その熱意により世代を越えて継承され、いま高水準の報告書として結実した。報告書の作成は、発掘に携わる者の義務であり、今後も対象とする時代や地域にかかわらず同種の作業は実施されていくであろうが、その点でも、参考とすべき点が多い。」(131.)

「散逸させることなく資料を守り」あるいは「報告書の作成は、発掘に携わる者の義務」であることは、なすべき当然の事柄として、問題なのは「報告書の作成」がなされれば、それで「発掘に携わる者の義務」を果たし終えたと言えるかという点である。
「発掘に携わる者の義務」は「報告書の作成」を行い、調査資料をあるべき場所に移管することによってはじめて全うされるのではないか。

「文家屯・東大山積石塚・大頂山」の発掘調査は、1942年9月から10月にかけて遼東半島で行われたが、当時の中国戦線の状況はどのようであったか。
1942年11月から12月にかけて、遼東半島の対岸である山東半島では「労務者狩り」で有名な「第三次魯東作戦」が行われていた。

「本作戦は第十ニ軍が、山東縦隊第五旅および同第五支隊を基幹とする膠東軍区の中共軍を剿滅し、山東半島一体の治安の回復、特に青島ー芝罘道の確保を目的としたものである。独立混成第五旅団と第五十九師団、独立混成第六、第七旅団の一部が参加した。作戦地は魯西の平原地とは全く様相を異にし、錯雑した山岳地が多く、三面海に面した地域である。従って軍は、西方から東方に遮断網を推進して、敵を半島東部に圧迫殲滅する戦法をとり、且つ海軍部隊と協定して沿岸の警戒を厳重にした。」(防衛庁防衛研究所戦史室 編1971戦史叢書『北支の治安戦<2>』:240.)

日本の植民地(租借地)であった「関東州」の遼東半島の対岸である山東半島では、強制労働を強いるために中国の人々を狩り立てる作戦が実施されていた。
1942年の「第三次魯東作戦」における中国側の俘虜数は12000人を超える。これらの人々のどれだけが、その後に日本に送られたのか、どこでどのような労働に従事していたのか、そして1945年以降どれだけの人が故郷に帰ることができたのか、未だに詳細は明らかにされていない。
そして1942年に学術振興会によってなされた「遼東先史遺跡」の発掘調査で出土した考古資料は、日本の京都大学に持ち運ばれて、現在もなお「囚われた」ままである。

「…調査後六十年を経ているにもかかわらず、精細で美しい挿図や写真ともども見やすく簡素に仕上げられ、日本における中国考古学研究と報告書作成の双方の水準を存分に発揮した優れた報告書となっている。資料呈示の方法やその考え方について、中国側研究者との間にはなお微妙な相違があるように思われるが、その溝を埋めていくことにも、つながるだろう。」(131.)

「中国側研究者との間に」あるとされる「微妙な相違」は、決して「資料呈示の方法やその考え方」だけではないだろう。戦時期に発掘して得た考古資料をどのように考えるのか、現在の在り方、特にこれからの扱い方といった植民地考古学そのものに対する研究者の姿勢にあるのではないだろうか。
その「相違」とは、戦時期になされた発掘調査資料を「収奪文化財」と考えるかどうか、「収奪文化財」について問題がある「瑕疵文化財」と考えるかどうか、「瑕疵文化財」を本来のあるべき場所に返還すべきと考えるかどうかという点である。
その「相違」は京都大学人文科学研究所考古学研究室の考古学研究者と中国側の研究者との間にあるだけではなく、日本側研究者相互の間にも存在するだろう。

考古誌が刊行されて、20年が経過した。
果たして「その溝を埋めていくこと」はできただろうか?
寡聞にして「溝を埋める」第一歩であるはずの瑕疵文化財が返還されたというニュースに接していない。


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