SSブログ

遼東先史遺跡発掘報告書刊行会2002『文家屯』 [考古誌批評]

遼東先史遺跡発掘報告書刊行会 編集 2002『文家屯 -1942年遼東先史遺跡発掘調査報告書-』京都大学人文科学研究所考古学研究室 発行

「凡例
1.本書は中華人民共和国遼寧省大連市営城子鎮に所在する文家屯・東大山積石塚・大頂山遺跡の発掘調査報告書である。
2.遺跡の発掘調査は、1942年度の日本学術振興会の科学研究費により、梅原末治を責任者として八幡一郎・島田貞彦・沢俊一・澄田正一が実施した。
3.出土遺物の整理と本書の作成は、岡村秀典が「中国沿海岸における龍山時代の地域間交流」を課題とする2000~2001年度の日本学術振興会科学研究費の交付を受けて組織した遼東先史遺跡発掘報告書刊行会(以下、本会と略称する)が行った。
4.発掘から60年の歳月が経過した。遺跡と遺構に関してはおもに八幡一郎と澄田正一の調査日誌をもとに記述し、文家屯遺跡に関しては澄田正一による概要報告[1987]を参照した。ただし、正確を期すため、八幡一郎と澄田正一の調査日誌を日付順に編集し、可能な限り忠実に再録した。
5.~8.(略)
9.本調査の記録類は、京都大学人文科学研究所で保管している。」(ii)

1942年に日本学術振興会の科学研究費によって京都大学を中心とする考古学者たちが調査した資料が、2002年に日本学術振興会の科学研究費によって京都大学を中心とする考古学者たちによって報告された。

大連ー旅順間の高速道路を疾走するマイクロバスのスモーク・ガラス越しに眺めた夕陽に輝く渤海湾。
かつてこの辺りで日本人考古学者によって発掘調査がなされたということを感じながら通り過ぎた。

「恰もこの節、日本学術振興会に東アジア古代文化遺跡の研究を目的とする本小委員会(第15(東亞古蹟)小委員会:引用者)が設けられ、実地の調査を開始することになったが、治安の関係その他から直ちに中国内地でそれを実施し難い事情に当面したために、如上の新しい問題を含む関東州史前遺跡調査の実施を提案して、1940年度から着手を見ることとなったのは、単に関東州史前の状態闡明に寄与するのみならず、進んで中国の古文物の性質を考える上にも役立つものと考える。上の経過に省みて調査の目標はもとより積石塚の発掘調査にあったのであるが、手続きその他の事情から、第1年度にあっては長山列島の上馬石貝塚の発掘を中心として、兼ねて同列島ならびに貔子窩など管内遺跡の一般調査を行い、また関東州内における積石塚分布を調査して、次年度の調査に資するなどの案のもとに着手した。(梅原末治)
編者注:本文は調査責任者であった梅原が、第1次調査の上馬石貝塚の報告書序文として準備していた原稿をもとにしている。この内容のかなりの部分は[梅原1942]に発表され、[梅原1947]にも3年間の調査の概観を補説して再録されている。本調査の研究史的位置づけを示すため、調査の経緯が記されている部分をここに抄録した。」(11.)

60年前の文章を改変しながらカギカッコなしで再録しているのだが、それでいいのだろうか。
なぜ「治安の関係その他から直ちに中国内地でそれを実施し難い事情に当面した」のか、そしてなぜ植民地である「関東州」で「それを実施し」たのか、編者の歴史認識が問われている。

「9月29日 晴(中略)午後、第2発掘地をB地点と名づけ2×5mの区画を定め、まさに発掘を開始せんとせる時、副屯長至り異議を申し立つ。午後に至って初めて中村の叱責により、副屯長も不精不精(不承不承か?:引用者)その一部の発掘を認める。」(八幡一郎:17.)

地元の役人がどのような「異議」を申し立てたのか、それに対して旅順博物館の中村富五郎氏(炊事担当)がどのように叱責し、八幡一郎氏はどのように対応したのか。
植民者で構成された発掘隊に対する地元住民の「異議申し立て」、植民者の末裔である報告者がどのように考えているのか記されていない。

「如上の経緯から安達氏らの要請を受けた岡村は、澄田の仕事を継承するため、1999年にそれを京都大学人文科学研究所に移送し、「中国沿海岸における龍山時代の地域間交流」を課題とする2000~2001年度の日本学術振興会科学研究費の交付を受け、遼東先史遺跡発掘報告書刊行会を組織、その整理に着手したのであった。
資料を京都大学人文科学研究所に受け入れるにあたり、ご子息の澄田岐氏には格別のご高配を賜わったほか、当研究所所長の桑山正進教授よりご尽力をいただいた。」(岡村秀典:23.)

そうして立派な報告がなされたのだが、「資料」は現在どのようになっているのだろうか。
地元の遼寧省の人たちは、自由に見学することができているのだろうか。
京都大学人文科学研究所は、これからも永久に「保管」し続けるのだろうか。
借用している資料は、借用している目的(資料の刊行)が果たされたのならば、直ちに本来の所有者にお返ししなければならないのではないか。

当時の「日本考古学」の受け止め方を紹介しておこう。

「此の年に於ける學者の労苦ある発掘、調査は此の國を舞台として社会の耳目を聳たしめた。ハルビン郊外の舊石器時代遺蹟は、今年にまで発掘を続行せしめ人骨の発見に力を注がうとする程の成功を収めた。徳永氏の満蒙學術調査團は科學の戦士といふ新しい言葉を新聞紙上に大きい活字で植えつけた。東亞考古学會の羊頭湾岸の貝塚・東大考古學教室の渤海國首都上京龍泉府址の発掘・されは鳥居博士一家族の契丹遺跡の調査等は、ここ2~3年に詳細な報告書となり、日本學者の手による輝かしい光として満洲の國土を照らすであらう。願くは其等のすべてが限りなく「豊(リシエス)」であらむことを。」(東京考古學會1934『考古學年報』:60.)

イギリス語では「リッチネス」だがフランス語を用いるのが、「編輯兼撥行者」である森本六爾氏である。
自分が置かれた時代状況を配慮せずに学問的感性に頼る危うさが表れている。
こうしたことは、現在も継続している危惧すべき傾向である。
60年前の調査について「…山東半島の先史文化との交流を裏づける資料が発見されただけでなく、先史時代の集落と墓地との関係を検討する貴重な手がかりが得られ、所期の目的はほぼ達成された」(岡村秀典・土屋みづほ「考察」:107.)とするだけで、そこに自省の気配は感じられない。
これでは「日本學者の手による輝かしい光として満洲の國土を照らすであらう」との評価と大差ないだろう。


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。