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宮本編2015『遼東半島上馬石貝塚の研究』 [考古誌批評]

宮本 一夫 編 2015『遼東半島上馬石貝塚の研究』九州大学出版会

「第1回の日本学術振興会の調査は1941(昭和16)年3月末から4月中旬にかけて行われた。隊長は梅原末治(京都帝国大学教授)であり、隊員は長谷部言人(東京帝国大学理学部教授)、八幡一郎(東京帝国大学理学部講師)、島田貞彦(旅順博物館嘱託)、森修(旅順博物館嘱託)、澄田正一(京都帝国大学大学院生)、澤俊一(朝鮮総督府学務部嘱託)からなる(図版26)。」(宮本「発掘調査の経過」3.)

1941年3月から4月にかけて遼寧省で日本の考古学者たちが発掘調査をしていた。
1941年当時、中国戦線の状況はどのようであったのか?
歴史の授業で余り教わった記憶もないので、少し記しておこう。

1月-2月:予南作戦(河南省南部)日本第11軍第3師団ほか vs 中国第5戦区第31集団軍ほか
3月-4月:錦江作戦(江西省)日本第11軍第33師団ほか vs 中国第9戦区第19集団軍ほか
5月:江北作戦(湖北省)日本第11軍第3師団ほか vs 中国第5戦区22・55集団軍
5月-6月:中原会戦(山西省南部)日本北支那方面軍第1軍 vs 中国第1戦区第5集団軍ほか

要は、中国大陸のあちこちで日本軍と中国軍の熾烈な戦闘が繰り広げられていたということである。
この間3年前から始まった重慶に対する爆撃も頻繁に行われていた。
そして12月には真珠湾攻撃に至り、中国戦線は泥沼化の様相を呈するに至る。
そうした中での発掘調査である。

「昭和三年一月一日以降において、日本軍によって占領された連合国の領土内で日本軍の庇護の下に、学術上の探検あるひは発掘事業を指揮し又はこれに参加した者」は「教職不適格者として指定を受けるべきものの範囲」の「審査委員会の審査判定に従う者」として示されていた(1946年「勅令第263号」『官報』第5790号)。

しかし本書には、そうした経緯は一切記されていない。

「こうして最後に残された資料が第1回調査の上馬石貝塚であった。四平山積石塚報告書完成後、宮本は上馬石貝塚の報告書刊行のための整理調査を行うため、上馬石貝塚全資料を九州大学考古学研究室に借り受けることとした。当時の山中一郎京都大学総合博物館教授ならびに上原真人京都大学大学院文学研究科教授の許可をいただき、2008年3月に上馬石貝塚資料を京都大学総合博物館から九州大学人文科学研究院考古学研究室に移動させた。」(宮本「整理調査の経過」8.)

「借り受け」というくらいだから、本書が刊行された2015年に「上馬石貝塚出土資料」は九州大学から京都大学に「返還」されたのだろう。
しかし本書に、そのことに関する記載はいっさい見当たらない。
おそらく現在もそのまま京都大学に保管されているのだろう。
調査報告が終了した「上馬石貝塚出土資料」を京都大学から中国に「返還」するという計画はないのだろうか。

「このような研究(東アジア編年網の作成:引用者)を行うにあたっては、本書でも述べてきたように、とりわけ遼東半島土器編年の構築が重要であった。中国大陸と韓半島や日本列島を結節する要が、地勢的に遼東半島にあったのである。しかし、日本にあってこのような研究が行いえたのは、京都大学や東京大学など戦前に中国で調査した考古学資料を目のあたりにできる環境があったからである。特に京都大学には、戦前の東亜考古学会や日本学術振興会が行った遼東半島の多くの発掘資料が収蔵されていた。当時、東亜考古学会の発掘資料は報告書が刊行されていたが、日本学術振興会の3遺跡の発掘資料は未公開のままであった。京都大学大学院修士課程の学生であった私は、当時の京都大学文学部陳列館の助手であった岡内三眞先生の逍遥(ママ:慫慂?)で、貔子窩や赤峰紅山後などの既発表資料とともに、未発表資料の上馬石貝塚資料を調査できる機会を与えていただいた。また、日本学術振興会の発掘にあたられた名古屋大学名誉教授澄田正一先生は当時愛知学院大学で教鞭を執っておられ、私も教えを請うため何度か愛知学院大学を訪れ、文家屯遺跡資料を調査させていただいた。当時の京都大学文学部考古学講座教授の小野山節先生には資料整理とともにその掲載のご許可をいただき、こうした資料の一部を使って修士論文を書くことができた。そしてそこに東北アジア土器編年網の輪郭を構築することができた。爾来その内容を新出資料の登場とともに、少しずつ修正しながらいくつかの論文で発表してきたところである。」(宮本「あとがき」376.)

しかし地元中国では「このような」と称される研究を行うことができなかった。
なぜなら地元中国では「京都大学や東京大学など戦前に中国で調査した考古学資料を目のあたりにできる環境」になかったからである。
地元中国の修士課程の学生は「こうした資料の一部を使って修士論文を書くこと」ができなかった。

本書では、そうしたことに関する記述は一切ない。

医学系の倫理審査委員会と同様のものが、文系においても設置されるべきであろう。


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五十嵐彰

発掘調査というものが、そして発掘調査報告というものが、発掘をした人たち(発掘者・発掘組織)のためではなく、発掘調査がなされた地に住む人たちのためであるならば、その調査報告はまず発掘調査がなされた地における言語、この場合は中国語で記されるべきではないでしょうか?
by 五十嵐彰 (2022-02-19 04:45) 

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