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クーン2012『アナキスト サッカー マニュアル』 [全方位書評]

ガブリエル・クーン(甘糟 智子 訳)2012『アナキスト サッカー マニュアル -スタジアムに歓声を、革命にサッカーを-』現代企画室(Gabriel Kuhn 2011 Soccer vs. the State: Tackling Football and Radical Politics. PM Press, Oakland )

目指すところは、ベスト8などではなく、「第2考古学的フットボール」であり、かつ「フットボール的第2考古学」である。
そしてキーワードは、「失われない柔軟性」(148.)であり、「オープン・マインド」(274.)である。

「南米ではサッカーの美しさという側面がもっとも重視された。南米の人々はイタリアの「カテナチオ」や英国の「キック アンド ラン」、ドイツの「カンプフガイスト(闘志)」といったヨーロッパのサッカーとは、身体的に異なるプレースタイルを大きな誇りとするようになった。世間から見ると、ヨーロッパ人はピッチに「仕事」に出かけるが、ラテンアメリカ人は「遊び」に出かけているようにも映る。あるライターは「一般的なイメージでは、ラテンアメリカのサッカーと同義語は、感動やエクスタシー、ファンタジー、自発性や直感、リズムや予測不可能性だ」と書いた。ブラジルの「フッチボール・アルテ(芸術的フットボール)」という考え方にこれが集約されていることは有名だ。左派もまた、そうした特徴の上にサッカーを理解している。アルゼンチンの有名な監督セサル・ルイス・メノッティは、「右派的サッカー」と「左派的サッカー」を区別した。彼によると「右派のサッカー」とは、「結果だけが物を言い、プレーヤーは勝利をもぎ取るためだけに給料をもらう傭兵へと堕落する」もので、「左派のサッカー」は「知性と創造性」を称え「ゲームが祭典であることを欲する。」」(56.)

一般には「南米 vs ヨーロッパ」という構図で捉えがちであるが、実は「ライト vs レフト」あるいは「国家主義 vs 民衆主義」という隠れた対立構図が示唆される。

「何を言いたいかというと、サッカーの過去を懐かしがり過ぎるのはあまりにも安易だし、サッカーの未来には暗い運命しか待っていないと悲観的にばかりなるのも同じく安易すぎる。僕は楽天家だ。サッカーには魔法のような、けれど宗教を成り立たせているものとは違う、非常に強力な要素があることは繰り返し証明されてきた。」(クリストフ・ヒュッテ:フリーランスのスポーツ翻訳者:220.)

国別やクラブ単位のワールドカップに顕著な商業主義とどのように対処していくのか、その道筋が示されている。

「アナキズムについて、ひとつはっきりさせておこう。アナキストを名乗る者たちは間違いなく、世界が動かされている方法を根本から変えたがってはいるが、彼らは決して、その道をカオスに向かって突き進めようと企む黒装束の虚無主義者(ニヒリスト)の群れなどではない。最も基本的にアナキズム(「支配する者がいない」ことを表すギリシャ語に由来する)とは権威を否定し、相互扶助と自治に基づく社会のほうが、現在私たちが手にしている社会よりも望ましいと考え、しかもそれこそが適切に機能しうる社会として取って替わり得る可能性(オルタナティブ)だと考える信念だ。」(ダイアナ・ウェルチ「アナキスト サッカー ルール」『オースティン・クロニクル』2006年6月9日:300.)

「基本的に「アナキスト サッカー クラブ」ではサッカーから伝統的なルールを取り去ることで、団体スポーツに通常、存在するヒエラルキーを一掃している。つまり、スコアを数えない、チームの区別を作らない、チームキャプテンを置かない、ハンドを取らない(なんと、完全な「ハンドボール」さえありだ)。何でもありなのだが、攻撃的な行動をとった場合と態度が悪い場合だけは、メジュラスいわく「プレーヤーを追い出していい」ことになっている。チームは数字を振って決めるが(1,2,1,2といった具合に)非常にフレキシブルで、「自分の」チームでないプレーヤーとの交替は当たり前、合間に交流したり、スポーツドリンクを飲んだりと頻繁に休憩が入り、夜が更けるにつれチームはどんどん変わっていく。
ただ遊んでいるだけのサッカーに見えるかもしれないが、「アナキスト サッカー クラブ」は確固としてある価値観に依って立っている。このクラブは、スポーツの中に彼らが見出している差別や団体スポーツが助長しがちな対立感情(このチームは自分のチームだから好き、このチームは自分のチームでないから嫌い)に対抗し、「アナキスト」という意味の深い言葉を用いて、サッカーを政治化してきた。それを知っていて人々は、ここは安心することができ、人から理解してもらえる空間だと思って集まっている。最も重要なのはこのクラブが、心底楽しく過ごすことができ、不公平を心配することなくサッカーのできる空間であることだ。」(同:302.)

スポーツに付き物の「競争性」を克服するための具体的な方法として、「ミックスサイド方式」が提案されている。例えば、得点を挙げたプレーヤーは相手チームへ移動するといった方法である。さらにより革新的な(核心的な)方法として「三面ゴールサッカー」が紹介されている。

「三面ゴールサッカーのアイデアを最初に思いついたのは、アスガ-・ヨルン(芸術家・思想家)のようだ。彼は自らが考える「トリアレクティクス」(三元弁証法)という概念(弁証法の二元構造を三位一体的に置き換える)を表現する手段として三面ゴールサッカーを考えていたようだ。」(313.)
「この試合方法の鍵は、攻撃性や競争性を助長しない点だ。ゴールが二か所のサッカーとは異なり、どのチームも自分たちが挙げたスコアは数えない。逆に入れられたゴールを数え、それが最も少なかったチームの勝利とする。このゲームは、まるで階級闘争において「中立」を装うメディアや国家のように、審判が「敵」対「味方」の闘いを仲介するような従来のサッカーの神話化された二極構造を脱構築する。同様に「やる奴」と「やられる奴」といった性心理的なドラマも存在せず、可能性はおおいに広がる。」(314.)

実際にやってみたい! 常に敵と味方が融通無碍に入れ替わり、アイ・コンタクトが交差し合う!

「経験のあるサッカープレーヤーならば知っているそうしたスキルのひとつが、サポートだ。フィールド上でプレーヤーは、ボールを相手ディフェンダーから遠ざけてキープするため、あるいはボールを前線へ運ぶために、チームメートがパスを出せる位置に移動し、サポートする。このテクニックには、自分の仲間がどこにいるか、また仲間が何をするかを察知することが必要だ。」(カルロス・フェルナンデス「激戦 -サッカーとアナキズム-」:319.)

「マラドーナばかりが10人いてもW杯で優勝はできないだろう。マラドーナが輝くためには、彼ができないたくさんの仕事を他のチームメートがやらなければならない。」(326.)

「サッカーの技術的な面以外の部分もまた、我々のコレクティブ(集団的)な政治行動を、特に長期的に強化しうる。例えば、戦略的な組織化方針としての「アフィニティ」(相互信頼に基づいた小グループによって政治行動を起こす)という考えはアナキストの発明だが、実践が難しいことのひとつだ。しかし日頃から一緒にサッカーをしていれば、「アフィニティ」という感覚は具体的にもたらされる。サッカーを構成するあらゆるコミュニケーションや協力が、相互信頼や相互理解という感覚となって凝結する。こうした感覚はひとたび獲得されれば、他の状況でも容易に達成されるようになる。何人かが一緒に何かをした時のほうが、ひとりずつの力をただ足した時よりも大きなインパクトを生みせるというのは、美しいことだ。」(319-320.)

「すべてはシンプルさにあるように思える。サッカーはその本質からシンプルなスポーツであり、アナキズムもまたその本質として、人間のシンプルな願いである。サッカーは根本的な容易さにおいて、世界を席巻し、我々を引き連れて行く。試合でだれかと出会うことや、プレー後の夕食やバーで絆を深めることも素晴らしい一部だ。サッカーのフィールドが基本的にプレーするために人と会う場所だとすれば、それを人が集うことを互いに楽しむ場へと拡大すべきだろう。そうした場こそ、アナーキーが発展できる場である。どうやってゴールを生むか、どうやってチームでトレーニングするかといった目的を追う過程で、自己組織化という考えが明確に立ち現れる時、アナキズムはもはや大したことではない。サッカーとアナキズムを引き合わせるのは自然で、象徴的なことだ。グラムシが「人の絆の偉大なる野外宮殿」と呼んだピッチを、我々のものにしなければならない。」(321.)

もう何年前のことになるだろうか。「レッドベアーズ」という埼玉の事業団チームと我が「サンサンFC」が稲城の競技場で対戦したのは。右サイドを思い切り駆け上がり、その後の懇親会でお互いの健闘を称え合ったのは。

「ボールは権力の特性を持たない。パスの出し手はボールを「所有」しているのではない。プルードンが言うところの、ボールを「保持(ポゼッション)」しているのだ。それでも、次の動きを決める主人はパスの出し手だ。自由意志主義(リバタリアン)の社会においては、彼は何でも好きなことができる。けれども彼はひとりでは存在できないし、ひとりでは前へ進めないし、ひとりでは生き残れない。ここにピュートル・クロポトキンが掲げた相互扶助の原理が働く。
パスとは利他的な行為で、パスの出し手の自由(「渡そうと思った時に、渡したいと思った相手に渡す」)は完全に、チームメートの存在に頼っている。
パスという個人の行動に意味が与えられるのは、唯一、その目的がグループのためにかなっている時だけである。パスをする(ボールを与える)ことは、チームメートへの信頼を確認することだ。渡した相手が、パスという贈り物を、この集団の役にたててくれるだろうという信頼の表れだ。これは政治運動の本質でもある。ボールをパスすることは、パンフレットを配ったり、ポスターを貼ることと本質的に同じだ。アクティビストは、誰かがそれを読み、何かに役立ててくれるだろうと信じている。」(ウーリー・ローゼル2008「パスとアルベール・カミュ」:323.)

このブログで記されている文章も、私が様々な人びとから受け取った様々なパスを、新たな未知の人々へ向けて放つ「パス」のようなものだ。
見知らぬ誰かが、しっかりと受け止めてくれるであろうことを信じて出す「パス」である。
出されたパスの勢いをそのまま生かす「ダイレクト」もあれば、勢いをうまく受け止めて、私なりのタイミングと変化をつけて出す「パス」もある。

「フットボールは、言語や宗教、民族、そして性別の垣根を越え、人々を繋ぐことができる、最良のコミュニケーションツールである!(中略)
フットボールは資本主義に飲み込まれ、不平等を助長し、スタジアムでは人種差別が横行し、偏狭な民族主義を煽る道具として利用されている。
だがこんな状況においても、フットボールには、憎しみや格差を吹っ飛ばしたと思える奇跡的な瞬間が存在する。人々の人生や生き方を変えるほどの瞬間が!
僕らは、そんな瞬間を目撃したいのだ。
僕らは、そんな瞬間を体験したいのだ。
そして、それらを語り継いでいきたいのだ。(中略)
あらゆる差別・搾取・戦争に抵抗する人びとよ。
こころからフットボールを愛する人々よ。
「フットボール 対 国家」のキックオフだ!
ヤツラの攻撃を跳ね返せ!
ラインをかき乱せ!
脚を止めるな!
まだプレーオンだ!
さあ、フットボールをしよう!
抵抗のためのフットボールを!」
(RFC(レイジ・フットボール・コレクティブ)「フットボールの勝利を信じて」:370.)


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