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矢部 史郎・山の手 緑1999「運動にはプランはない」 [論文時評]

矢部 史郎・山の手 緑1999「運動にはプランはない」『現代思想』第27巻 第12号:209-213.(2001『無産大衆神髄』河出書房新社に「グローバリゼーション」と題して収録)

「例えば私たちがある問題を提起したとしよう。すると市民の誰かが必ず次のような質問をする。「ではどうしたらいいのか。」私たちは「運動しよう」と言う。しかし「運動しよう」では回答にならない。問われているのは計画なのだ。運動には計画がなく、プランがない。プランを拒否していると言ってもいい。しかし、市民にとって重要なのはプランが提示されることだ。ある人はそれを「代案」と言い「現実味」と言い「オルタナティブ」と言い、ようするにプランが欲しくてしょうがないのだ。」(213.)

テレビのコメンテーターが「野党は批判ばかりで代案を出さない」としたり顔で述べているのも同類である。批判されている事柄自体は否定できないので、そして自分も代案を示すことができないので、せめておのれの立ち位置ぐらいは確保しようと相手に責任を押し付けている訳である。

私も同じような経験をしたことがある。
旧石器学界で有名な定説について批判的な発表をした時のことである。これまた有名な碩学と少し話しをしたのだが、「五十嵐クンの言うことはもっともで、よく分かる。しかしそれならばどうしたいのかを言わないとダメだよ」と。
要するにその人にとっては問題を指摘するだけでは、ダメなのだ。指摘されている問題を受け止めて、自らを含めて全体で問題を解決しようと努めるのではなく、あくまでも問題提起者・批判者に回答を要求して、現状を維持しつつ自分は何もしないのだ。

「彼らは、取引を求めている。自分にとってできるだけ有利な売り先を探して、プランを比較参照している。口に出しては言わないが顔に書いてある。彼らは所有の肉人形だから、ニーズを計量して権利を積算して、ようするに自分を切り売りするブローカーみたいな真似しかできないのだ。プランを求めるのは、内容次第ではいつでも動員される用意があるというサインである。私たちはプランのために自分を売るような奴と組むことはない。断片を寄せ集めて切り売りして、「ちょっとはよくしよう」とか「できることからはじめよう」とか打算を重ねるさもしい足し算の思考とは、一切かかわることができないのである。
ではなぜ私たちは問題を提起するのか。
それは、葛藤を引き起こすためだ。私たちがなにかを「研究」するのは、状況をすっきりと説明して人を納得させたり、問題を解決する「処方箋」を書くためではない。葛藤を引き起こし、伝染させ、共有するためである。葛藤だけが、プランからこぼれ落ちる最後の現実であり、機械化され得ない余剰である。そうした意味で、葛藤だけが現実的な思考であり、また現実の位相での生産は葛藤によって可能になるのだ。葛藤を抜きに生産は為されないし、生産は決して手放すことのできない無産階級の特権である。
「内的な葛藤を、自分の中の分裂を、決して手放すな。」(J・コプチェク)」(213.)

考古学最大の「葛藤」は、<遺跡>問題である。
これも親しい研究者に<遺跡>問題に関する研究集会の開催を持ち掛けた時のこと。「落としどころが見当たらない」という訳が分かったような分からないような回答で、やんわりと断られたことがあった。
私も時として「ちょっとはよくしよう」とか「できることからはじめよう」といった妥協的な思考に陥りそうになることがしばしばある。どこで線を引くか難しいところである。「一切かかわることができない」という非妥協的な姿勢は鮮烈である。

最近、新たな<遺跡>定義が示された。
ある意味で当り障りのない上辺をなぞっただけの自己満足に近い文章である。<遺跡>を説明するのに<遺跡>問題について語らずに説明できると考えていることに事態の深刻さがうかがわれる。
ある調査区から縄紋時代と古代の遺構・遺物群が確認された。この異なる時代痕跡群は、同じ<遺跡>なのか、それとも異なる<遺跡>なのか。
世にいう「遺跡地図」を見ていると、二つの「遺跡」が接している、すなわち一線をもって区切られている事態によく遭遇するが、関係者は質問にくる市民に、その学問的根拠を納得できるように説明できるだろうか? なぜこれとこれは違う「遺跡」で同じ「遺跡」ではないのか、私は説明できない。
新たに示された<遺跡>定義は、日々直面する根本的な葛藤を説明することなく説明したつもりになっている。ところがそれは実は何の説明にもなっていないのだ。

「葛藤を共有するなかで、私たちが何かを生産するかもしれない。絶対そうとは言えないが、絶対そうならないとも言えない。そうした生産へのうすい確信が、未来のない運動を支えている。未来のない運動をやろう。」(213.)

文化財返還運動も、葛藤だらけである。葛藤の中から何とか未来を見出そうとしている。そうした中で、冷静にも「未来のない運動をやろう」と呼びかけることができる強靭さを思う。
「何かを生産するかもしれない」が一般的には「未来のない運動」。
一見すると無駄にも思える事柄を、地道に続けることで見えてくる可能性。
単に希望を語るのではなく、「生産へのうすい確信」に基づいて行う運動。


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