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望月編2023『土偶を読むを読む』 [全方位書評]

望月 昭秀(縄文ZINE)編 2023『土偶を読むを読む』文学通信

同じような構図の「「石棒から読む」を読む」という文章を記した者として無関心ではいられない。

「『土偶を読む』で目から鱗を落としてしまった人は、もう一度その落とした鱗を探してもらうことになる。実は肯定的なことはこの先とても少ない。それでもかすんだ目をこすり、本書を読み進めてほしい。(中略)
『土偶を読む』の検証は、たとえれば雪かきに近い作業だ。本書を読み終える頃には少しだけその道が歩きやすくなっていることを願う。
雪かきは重労働だ。しかし誰かがやらねばならない。」(望月「はじめに」4-5.)

「鱗を落としてしまった人」として名前が挙げられているのは、「養老孟司氏、鹿島茂氏、いとうせいこう氏、中島岳志氏、松岡正剛氏などなど」(3.)そしてサントリー学芸賞2021年度社会・風俗部門の選考委員各氏である。
つくづく専門外の論評には、慎重になるべきと教えられる。
落とした鱗を探す誠実さを持った論者は、どれだけ居るだろうか。

他者に対する批判作業は重労働である、という言葉も頷ける。
集中部区分、母岩(個体)別資料、砂川三類型、富山、緑川東、<遺跡>問題、考古時間、部材、考古誌批評…
考えてみれば、第2考古学は日々「雪かき」しているようなものだ。
何の報酬もないが、道を歩く人が少しでも歩きやすくなるようにという思いだけを支えにして。

「カックウ(北海道函館市著保内野出土中空土偶:引用者)とクリが似ていると考えた時に、まず考えなければならなかったことは、類例を洗い出してその欠けている部分を想定することだったのではないだろうか。不完全な状態のものを並べて「似ている」と考察することよりも優先するべきことなのは火を見るよりも明らかだ。」(望月「検証 土偶を読む」:18.)
「まっくう(東京都町田市田端東出土土偶頭部:引用者)など、先にあげた類例を知らなかったと言うのであれば、明らかな調査不足で、もし知っていて触れなかった(考察に加えなかった)のだとしたら、あまりにも恣意的な資料の選択、写真の比較と言えないだろうか。」(22.)

頭頂部に聳え立つ二つの円筒状突起。これを見てクリと似ていると思う人は誰もいないだろう。
考古資料を取り扱うのに、欠損部位を考慮せずに一方向からの見た目で比較する。致命的である。
「読むを読む」については、この部分だけで基本的に「投了」である。

対象資料の類例や編年関係の検討、他の資料(この場合は食用植物資料)との対比の際には、相互の外見(平面的・立体的)だけでなく、時空間的な利用可能条件を検討し「恣意的な資料の選択」を回避することは、必須(イロハのイ)であり、学生の卒論指導などでは指導教員がそうした指導ができなければ、教員として失格であることは「火を見るよりも明らかだ」。
「遮光器土偶の遮光器は、やはり遮光器だった」という卒論が提出されれば、やはりそのまま通すわけにはいかないだろう。

「日本考古学のこれまでの研究で、縄文時代の土器編年(地域と時代でどのような型式の土器が作られていたか、その前後関係や空間的な広がりや文化圏の研究)とそれに伴う土偶の編年は精緻に整備されている。土器編年に加え発掘での層位や土器に付着した炭化物による放射性炭素年代測定と合わせて、時間と空間の「物差し」は、ある程度出来上がっている。土器と土偶は必ずしもその変化の歩幅が揃っているわけではないが、その歩幅のズレも把握するのが編年でもある。だから、例えばどんな手法を使った考察であっても、どこかのタイミングで編年に照らし合わせる作業が必要になる。特に土偶にモチーフを求める『土偶を読む』の研究では、土偶の編年による形態変化はことさら重要な要素になりうるもので、それを考慮に入れていない考察は、厳しい言葉で言えばただのオカルトでしかない。」(47.)

あの中谷の注口土器研究がなぜあの山内からボロクソ言われたのかという教訓を「日本考古学」に関係する者は、みな心に刻んでいる。
そしてここで述べられている事柄はあくまでも「縄文時代の土器編年」であり、決して「旧石器時代の石器編年」ではないことも、あの捏造事件を通じて「日本考古学」に関係する者は、みな心に刻んでいる。

聞くところによれば最近の「読む」の筆者は、すでにあっちの世界(オカルト)に入りかけており、もうこっちの世界には戻ってこないかも知れない。よくあるパターンである。

「本書で検証した通り『土偶を読む』での読み解きは破綻している。
読者に対して誠実でない面や、過去の研究を都合よく利用した上に軽視し、時に読み間違え改変し、さらに敵視する姿勢ははっきり言って不快で、筆者は本書を書き、編するにあたり、「この先は通さねえぜフェイク野郎」(キングギドラ2002)という気分でもあった。」(望月「検証のまとめ」:179.)

これでは、「あちらの世界」に行かざるを得ないだろう。

「「こういうものを否定したら、自由な発想が出なくなってしまうじゃないか」、「縄文時代は答えがないのだから何を言ってもいいじゃないか」とは、筆者も何度か言われている。
「自由な発想」は、もちろんその通りだ。しかし、そこには明確な線引きがある。事実を基にしているか、そうでないかだ。それを一緒くたにしてはいけない。(中略)
たとえ正しくなかったとしても、たとえオカルトでも面白い方がいいよね、という考え方があるのもわかる。オカルトは楽しいし魅力的なエンタメだ。しかし、事実に基づかないのであれば、その先は必ず行き止まりになる。」(望月「おわりに」:427-8.)

図らずも編年研究という第1考古学の重要性を再確認することになった本書。
それが一般の人びとはおろか専門外の知識人にまで理解されていないということを再確認することになった本書。
もっと色々な伝達手段を用いて伝える努力が必要である。

考古学のコア部分の専門家たちは、『読む』を支持する非専門家たちだけでなく、『読む』を支持した非専門家たちを批判する『読むを読む』を支持する非専門家たちとも隔たっている。



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五十嵐彰

筆者は執筆時に「まっくう」の存在を知っていたかそれとも知らなかったのかとか、「まっくう」と「かっくう」は似ていると思うか思わないかとか、「かっくう」の頭頂部の欠損箇所には2本の円筒状突起があったと思うか思わないかといったことを何時間議論しても虚しさが残るだけでしょう。それよりもなぜ『読む』があれほど世間に受け入れられたのかということを社会学的に検討するほうがより有意義ではないでしょうか。その要因の一つは昨今の縄文ブームであり、土偶について言えば「かわいい」といった面からのみ取り上げられていることがあるように思います。そうした表面的な評価が今回の事態を呼び込んでいるように思われ、それに対して考古学という学問の根幹や本質がほとんど理解されていないことが図らずも明らかになりました。たとえば編年研究について言えば、<もの>の型式研究と<もの>が<場>にある層位研究によって成り立っているのですが、前者は<もの>の製作時に付与された属性であるのに対して、後者は<もの>の廃棄時の属性であるといった考古時間に関する基本的な理解や、土器型式と石器型式の根本的な違いといったことです。
もはや覆水は盆に返りませんが、雨降って地が固まることを願っています。
by 五十嵐彰 (2023-05-13 08:20) 

五十嵐彰

『読むを読む』の419ページには、「『土偶を読む』の品質管理の偏り」として中心部の白地の「専門家」の周りをドーナツ状に黒地の「非専門家」が取り囲む図式が提示されています(菅2023)。
今回の事態は、実は単色で示された「非専門家」が、「とにかく似ているのだから、それでいいじゃないか」という「読む支持派」と「事実に基づかない妄想はダメなんだ」という「読むを読む支持派」に分離していることを明らかにしました。
今後の帰趨は、中心部に位置付けられた専門家を含む後者(読むを読む支持派)が前者(読む支持派)をどれだけ説得できるか(科学vs反科学)にかかっているように思われます。

by 五十嵐彰 (2023-05-14 08:04) 

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