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景山(中谷)1935「先史學編年への異見」 [論文時評]

景山 哲二(中谷 治宇二郎) 1935「先史學編年への異見」『考古學』第6巻 第10号、東京考古學會:467-470.

「我国に於ける最近十ヶ年間の先史學の主潮は、遺跡の分層的発掘に依る遺物編年に終始してゐるかに見える。是はその研究の一中心地たる東京に於て、帝大人類學教室出身者及大山史前研究所の人々が全力をそれに注いだ結果であつて、その為従来人々の考の外にあつた斯学の編年がほゞ見通のつく安心に達したのである。この功績は甚だ大であるが方法論的に見れば多少の異議がある。」(467.)

「本號「先史學編年への異見」の筆者景山哲二氏は某先史學者の別名、其の一文の責任は当然景山氏のものであります。異見に更に異見のある方々は此の欄に寄稿しもつて本誌をにぎやかにして頂きたいものであります。」(編者[藤森 栄一]:467.)

長らく「そうだろうな」と考えて篋底に秘めていたが、ようやく確認が取れたのでここに明らかにすることができた。但しというか、それ故にというか、著作集や遺稿集にも著作年譜にも掲載されておらず、殆ど省みられることのない論稿である。欠落した学史である。

「最近日本の先史学は、まるでスコラ哲学の様になってしまって抜き差しならず、皆困っている模様。同人をしている雑誌に匿名でその方法論を書いたら浜田先生初め共鳴者多く、編年学派に対して今度は私の主張する形式学派の方法論を具体的に示す順番になってきました。どうかして本年中に「日本先史学」を書上げたいものです。」(中谷 治宇二郎から中谷 宇吉郎宛 1936年1月21日付書簡、法安 桂子2019『幻の父を追って -早世の考古学者 中谷治宇二郎 物語-』AN-Design & Writing:103.)

36年1月に「書上げたい」と意欲を示した『日本先史学』は、2か月後に34歳で世を去る中谷氏に許された時間はなく形をなすことは叶わなかった。わずかに『日本先史學序史』と題した書籍が、35年12月に出版されたに留まった。

本稿に関連する最低限の時系列的な確認をしておく。

1927年11月:中谷「注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布」『東京大学理学部人類学教室研究報告』第4編
1929年7月:山内 清男「(書評)J.Nakaya: A Study of the Stone Age Remains of Japan. Ⅰ. Classification and Distribution of Vases with Spouts.」『史前学雑誌』第1巻 第3号:90-91.
1929年9月:中谷『日本石器時代提要』岡書院
1933年10月:小林 行雄「先史考古学に於ける様式問題」『考古学』第4巻 第8号:223-238.

なぜ山内は、日本語の本冊ではなく別冊である英文抄録を書評の対象としたのか?
そして中谷は、なぜ本名ではなく匿名(別名)で反論しなくてはならなかったのか? 
当時は誰もが誰であるか了解していたであろうにも関わらず。

それは同年2月に発表された山内の痛烈な八幡批判が少なからず作用していたのではなかったか?

「…氏の独断、用語に関する不用意、奔放なる想像は甚だ奇怪であると云う印象を与えるにすぎない。好古青年の夢との距離は僅少であらう。方今社会、権力等厳つい言葉と合せて、泰西文士の口調を模倣し、徒に標語を作成し、自己陶酔的作品を発表する徒輩があるが、八幡氏の如き責任あるべき学者が、一脈相似た傾向を示されるのは甚だ心外である。同時にこの所論の発展又は廃棄に当っては公明なる手段によって発表されることを期待する。」(山内 清男1935「(書評)八幡一郎 北佐久郡の考古学的調査」『人類学雑誌』第50巻 第2号:76.)

今の33才が同い年の学友に向けて、こうした直言を公にすることができるだろうか?
中谷・山内・八幡、同じ1902年生まれの相克である。
それはさておき、「先史學編年への異見」である。

「編年を伴はない分類は存するが分類を伴はない編年は存しない。この點は特に編年學派の留意すべきものではなからうか。編年が學の目的となり得ない為、今日に於てはそれ等の人々は無意識に層位による分類を試てゐるものと考へられるのである。分類上の推移を層位的な遺跡発掘によつて確めなければならないと云ふ方法は、随分努力の多い事と思はれるが、それは研究者各々の立場であるから結構だが、分類は層位的発掘に依つても常に同一結果を生じ得るものではない。」(469.)

単に20世紀前半における縄紋時代研究に留まらず、20世紀後半における層位と型式の相互関係を巡る前期旧石器存否問題にまで波及する「異見」である。
編年は研究の目的ではなく手段であり、本来の目的は文化史の構築であるとの「異見」が、正しく受け止められていたのならば、旧石器捏造事件もまた違った展開を示したのではないだろうか?

「以上、筆者は最近我国の編年學派の人々の努力に敬意を表し、併せてその學問の方向が先史學の編年確立と信ぜられてゐる事は認識の過であつて、實は形式考古學への一證明の方法が試られてゐるのであり、従つてその業績は一の事實ではなく一の結果であり、又編年の名の下に各種遺跡の層位名等が羅列される事は徒に學問を編年學派の認識の混雑に参加せしめてゐるにすぎないものとして編年観への一異見を述べたものである。」(470.)



タグ:学史 編年
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