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ハージ2022『オルター・ポリティクス』 [全方位書評]

ガッサン・ハージ(塩原 良和・川端 浩平 監訳、前川 真裕子・稲津 秀樹・高橋 進之介 訳)2022『オルター・ポリティクス -批判的人類学とラディカルな想像力-』明石書店(Ghassan Hage 2015 "ALTER-POLITICS" Melbourne University Publishing.)

「「批判的思考」を定義する方法はたくさんあるものの、最初に明確にしなければならないのは、批判的(ラディカル)思考と「急進派(ラディカル)」思考は違うということだ。「批判的」であることは、たとえばラディカルな政治とのあいだに明らかな親和性があったとしても、思考の知的資産であり、政治的な資産ではない。社会学者や人類学者は、自分たちを政治的な意味において明確に位置づけるかもしれないし、そうしないかもしれない。同様に、自分たちの政治的志向に基づいて研究を方向づけるかもしれないし、そうしないかもしれない。しかし批判的思考に関与するときには、既存の社会秩序におけるルーティン化されたしがらみを打破する政治に関わらざるをえない。それにもかかわらず、批判的であること本来の知的性質を強調することは、依然として重要である。」(90.)

「ラディカル」という英単語には、二つの意味がある。
前稿で触れた『土偶を読むを読む』(望月編2023)も、その批判対象である『土偶を読む』(竹倉2022)も、ある意味で同じように「批判的」である。前者は後者の内容・姿勢を批判し、後者は自らの説を受け入れない旧態依然たる「日本考古学」を批判する。
しかし、その「批判」には大きな違いがある。
過ちを放置することは許されないというやむにやまれぬ思いからなされる「批判」か、それとも自らを売り出さんがための「批判」かという違いである。
こうした私の想定が合っているかそれとも的外れなのかについては、批判を受けた後に示される対応の様態を見れば明らかになる。「読むを読む」側から「読む」側に対して要請された公開討論会の開催について、現時点で何の反応もないようである。

「あらゆる社会科学のなかで、人類学は間違いなく、一次資料を用いながらユートピア的思想を提案してきたという点でもっとも重要であった。人類学者は私たち自身が偶発的な存在であることを知らしめる、存在の複数の様式の証人を担う、とレヴィ=ストロースが系統立てて言明したように、そして私はこの言明を人類学という思惟の様態の根幹に据えているのだが、人類学は私たちが実際はそうであるものとはまったく異なるものとして、私たち自身を想像することを可能にする。実際、私たちはそのように想像することができる。なぜならば、ある意味、私たちはすでに自分たちがそうであるものとは、確かに異なっているからである。人類学的な他者は、私たちにとっての他者であると同時に、私たち自身でもある。私たちの他者性(アザーネス)は、私たちの内部に住まうのである。まさに、この点において、こうしたユートピア的思想と批判的人類学の親和性がもっとも明白になるのだ。」(322.)

今までユートピア的思想は、非現実的としてまともに取り扱われてこなかった。
筆者はこのようなユートピア的思想を非現実的とする「存在論的想定」を「単一現実主義」という。
しかしラトゥールとカストロによって「多自然主義」が提唱されて以来、現実(リアリティ)は実はいくつもある(リアリティーズ)ということが示されてきた。
私もある人から「現実離れしている」と非難されたが、「私たちが「現実」と呼ぶものが単なるひとつの支配的な現実にすぎない」(321.)ことが明らかになりつつある。
ユートピアとは、周縁化され抑圧されたひとつの現実なのである。

人種差別(レイシズム)や性差別(セクシズム)そして植民地主義(コロニアリズム)や国家主義(ナショナリズム)を克服した社会を求めること、それは自らの内にある他者性(アザーネス)を見出すことである。
現在の社会状況を変革するにあたって、単なるアンチにとどまることなく、さらに先に進むにはオルターという発想が欠かせず、そのためには批判的人類学が養ってきた構想力が必要である。

世界の人類学(批判的人類学とラディカルな想像力)は、東アジアの列島内における先史時代ヒト形土製品と有用植物の外見的類似を巡る騒動を遥かに超えて、先へ先へと進んでいる。

「他なる何ものかによって生かされ、生きる力を賦活してもらうこと、そのことに気づくこと、そのことを受け入れること、それがもうひとつの世界へと、生へと、喜びへといざなってくれるのだとハージは私たちに告げている。
本書冒頭において情熱を抱くことの大切さを説いたうえで、ハージは、正直であること、真剣であることの大切さについても随所で強調している。その溢れるばかりの情熱を込めた議論が行き着いたところに情熱という語がもたらす印象とは対照的な他なるものの静かな受容が、私たちの生を根源的な喜びで満たしてくれることについての省察はある。
アンチからオルターへと思考を開くこと、それは声高に主張することから、静かな囁き、聞こえぬ声、消えゆく声に静かに耳を傾けようとする自省的な試みに自らを開くことにほかならない。そして、その静かな営みこそが、新たな声をあげることにつながる。」(斎藤 剛「解説 もうひとつの思考と政治に向けて -ガッサン・ハージの人類学を基礎づけるもの-」:387-8.)


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