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「前・中期旧石器捏造から20年」 [捏造問題]

「前・中期旧石器捏造から20年」と題する特集(『考古学ジャーナル』第730号、2019年9月号)が刊行された。正確には「捏造発覚から20年」ということだろう。それにしても、あちこち、分からないことだらけである。

「まずは、座散乱木グループによる論争決着宣言を撤回する必要がある。」(安蒜 政雄「日本旧石器時代の論争と捏造」:1.)
誰が、どこで、どのように撤回するのだろうか? なんのために? 
そのようなことは、すでに周知の事柄ではないだろうか?

「その意味で、論争の争点は、中期の存否だ。」(同)
ほんとうにそうなのだろうか?

「佐藤宏之はNo13の宮崎県後牟田、竹岡俊樹はフランスのラザレ遺跡の出土例をもとに、No14の山形県富山を前期旧石器時代の所産とするが、縄文時代早期との異同が論議された。」(白石 浩之「前・中期旧石器捏造問題20年の教訓と研究の方向性」:5.)

あたかも過去の出来事のように記されているが、決して過去の出来事ではなく、現在の日本旧石器研究における争点の一つは、間違いなく「富山問題」である。

「研究倫理を支え、学術研究の質を確保するために重要なことは活発な議論ではないかと思う。」(坂井 秀也「旧石器捏造と文化財行政・研究倫理」:9.)

「捏造をめぐる文化財行政や研究倫理について」述べられた結論として「活発な議論」が求められている訳だが、焦点の「富山問題」については言及がない。

「実験考古学は現在と過去をつなげるものとして、非常に魅力的な方法であり、近年、石器研究は個々人の特定へ向かっている。」(加藤 悠雅「遺跡の立地状況と実験考古学」:12.)

本当にそんなところへ「向かっている」のだろうか? そうだとしたら、非常に不安である。 
近年の石器研究の動向に疎い私などは、具体的な文献を挙げてもらわないと訳が分からない。

「1つ1つのデータの信頼性を丁寧に説明し、発見した事象が科学的裏づけを持つものであることを、しっかり説明すること。
その事象が、人類史の中のどのようなコンテキストでどのような意義を持つのかを深く検討し、伝えること。」(海部 陽介「考古学と自然人類学が目指すべきもの」:19.)

公的な調査機関が調査した「前期旧石器」<遺跡>を巡る「富山問題」こそ、こうした観点から多くの研究者によって検討されるべきであろう。

「広い視野でグローバルに捉えることの重要性も捏造事件からの教訓であり、このことは、最古の石器群研究にのみかかわるものではない。そういった意味で、人類の拡散といったグローバルな問題をも扱う旧石器時代の研究にあっては、ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島においても世界的な研究動向を受信し、巨視的な観点から東アジアの人類史の中に日本の考古文化を位置づけることは必要不可欠な取り組みといえる。
しかし、グローバルな視点とは果たして世界から受け取るものだけなのであろうか。先に指摘したように、更新世の日本列島に展開した時空間的変異が顕著な多彩な考古文化の評価は、「旧石器時代および、後期旧石器時代とは何か?」といった世界的な人類史研究上の課題でもあった。世界の研究動向に同期するだけではなく、日本列島という多様な環境で花開いた多彩な考古文化をもとに、世界に研究視点を提起し、既存の枠組みを問い直し再構築をはかることも重要であろう。」(大塚 宣明「日本旧石器研究の方向性」:23.)

ある意味で本特集号の結論的な文章であるが、こうした文章を読んで思い起こした文章をいくつか引用しておこう。

「東北南部の前期・中期の石器群の場合には、上述の条件に照らして見た場合、石材を遺跡に持ち込んで石器製作が可能なほどの時間一つの地点に滞留しておらず、そのような時間的・組織的余裕がないほど頻繁に移動を繰り返していたことを示していると考えられる。激しい移動生活では、手荷物は即負担となってはね返るため、前述のような定住性の高い場で成り立つシステムは機能しない。新たな解釈のモデルとして、激しい移動とそれを支える次のような装備補給のシステムを提示したい。」(梶原 洋ほか1996「上高森遺跡第3次調査 -石器群形成にかかわる石材供給と移動・補給システム-」『日本考古学協会 第62回総会 研究発表要旨』:14-5.)
「残された石器群が人間の行動様式や背景となる環境などの複合した要因によって生み出されたものであるとすれば、前期・中期と後期の集中地点に見られるような違いが、なぜ生まれるのかを考察することによって、その背景にある人類集団の行動の内容と意味を行動に促して(ママ)具体的に理解できることができるであろう。中央ヨーロッパの中期旧石器後期から後期旧石器にかけて分析したオーギュスタンの研究も中期と後期に移動と石材利用の点で画期があることを指摘している(Augustins 1991)。
以下に前期・中期と後期の石器群の遺され方に見られる変化に関して、想定される要因は以下のようであったと考えられる。
①石器製作をすることができるような余裕のある生業・移動システムになったこと。つまり、計画的な狩猟と貯蔵・運搬手段の改良が行われ、さらに石材獲得のための、恒常的な交換ルートの出現も予測される。
(中略)
上述の要素は、すべて人類の持つ知的能力の向上を前提として始めて(ママ)可能になった要素だと思われる。石器群の遺され方の違いは、単なる石器製作技術の差や持っている伝統の違いなどではなく、より大きな人類の進化の問題に直接関係していると予測できる。このようにして抽出された多様な要因によって規制された行動内容の変化によりもたらされた違いが、本当の意味での時代の画期を示すものとして認識されるべきである。」(梶原 洋1999「石器群の形成過程から見た行動推定の試み -東北地方の前期・中期旧石器時代石器群を考える-」『ユーラシア大陸東部における前期・中期旧石器の諸問題』:246-7.)

20年が経過して、どれだけのことが検証されて、どれだけのことが教訓として生かされて、どれだけのことが正されたのだろうか?
「捏造発覚から20年」、これが2019年の日本旧石器研究の現状である。

最後にもう一つ。

「すでに採用試験に人が集まらない状況が知られているが、学生の地元志向が強くなった昨今、地方ほど人材が集まらない状況は、これから加速度的に進むと見込まれる。」(藤山 龍造「地域と連携した人材育成の試み -明治大学の実習授業-」:24.)

私の日本語能力では、理解不能である。何かの事故があったのだと思いたい。

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ルーキー

学生の地元志向が強くなった昨今、地方ほど人材が集まらない状況は、これから加速度的に進むと見込まれる。

私の頃は学生は都市志向が強く、地元には帰ってこないというのが顕著でしたけどね。まあ最近は、20年前と違って地方にも、埋蔵文化財関連の採用試験が増えたと聞いていますから、これを機会に地元採用を狙う人もいるかもしれませんが。しかし、もともと人を多く採用するような職種ではないから、競争の厳しさは変わっていなさそう。自分が学生の頃は、大学は出たけど10年もしくは20年発掘現場を経験しているが、正規の雇用に恵まれない人は何人かいたけど、彼等にチャンスは永遠に来なかっただろうな。本論とは関係ないことを長々と失礼しました。
by ルーキー (2022-09-22 23:04) 

五十嵐彰

久し振りに読んでみて「地元」という曖昧な言葉から論旨の混乱が生じているように思われました。都会出身の学生の地元は都会だろうし、地方出身の学生の地元は地方となりますが、大学生の空間移動の一般的な傾向が地方から都会へという流れならば、この場合の「学生の地元」は例外的な都会と解さないと論旨が一貫しないので違和感が残り続けるのです。
by 五十嵐彰 (2022-09-23 00:08) 

何を言いたいのか訳が分からん。

当時、当大学は捏造当事者の一人であるK教授の帝国だった。常に大学外で講演会などで遊びまわっていて大学におらず、在学中に会話を交わしたのはたったの2回だけ。助手に全てを押し付けて卒論指導など知らぬ存ぜぬ。大学院生は院生で学部生に威張り散らし、研究者以前に人として終わっていた。それを間近に見て進路を変えた。4回生の試験科目は「捏造事件について思う事を書きなさい」だった。今じゃ名誉教授の肩書きぶら下げて良い旅夢気分。御大層な御身分だよ。


まともな若者は、もう日本の考古学で食っている輩に関わりたくないんですよ。私も卒業後に別大学の大学院で専攻を鞍替えしました。本当に学部時代の事は無かった事にしたい、それくらい宗教化していた。あれは学問ではない。賀川氏が自死を選んでいる事態になっているのに誰もが我関せずどころか、更に酷くなっている。あの一件で、日本の考古学は信頼以前に信用が消え失せた。当時、考古学専攻の学生にしてみれば尚更です。


問題の大きさを全く理解できていない。放っておけばそのうち消えてなくなる分野です。日本には考古学好きという性癖は在っても、考古学という学問は最初から存在しなかった。竹岡先生を露骨に排除し続けるのはその証左でしょう。もう関わりたくない、時間と学費の無駄だった。
by 何を言いたいのか訳が分からん。 (2022-11-23 21:20) 

五十嵐彰

「…芹沢長介「波乱の考古学界を憂える」(『中央公論』1月号)には、おそらく藤村らのグループとの微妙な対立と、筆者自身の自己保身がみえる。芹沢は、ある中国人研究者の言葉を借りて、自分がかねてより藤村らの発見に疑問を抱いていたことを暗ににおわせつつ、さらに藤村らのグループによって、かつて自分の発見が無視され、「研究者の歪曲」が行われたと指摘する。旧石器時代研究の第一人者を自負する研究者としては、矮小で見苦しいコメントだと、評者には思われた。」(坂野 徹2001「石器捏造はなぜ見破れなかったのか -日本の考古学総体の見直しが必要-」『図書新聞』第2526号)
by 五十嵐彰 (2022-11-24 21:27) 

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