SSブログ

江上1949「考古学」 [論文時評]

江上 波夫 1949「考古学」『日本の人文科学 -回顧と展望-』人文科学委員会編集(東京都千代田区霞が関 文部省内):98-105.

「昭和二十三年秋、日本の人文科学界は、米國人文科学顧問團の来朝を迎えた。この顧問團は、日本における人文科学研究の過去および現状を検討し、今後の研究組織や研究方向について日本の人文科学者と討議・懇談を重ね、その結果にもとづき、民間情報教育局を通じて総司令部に意見を具申するという任務を帯びていたのである。
この討議が熟しつつあつた同年の三月、連合軍総司令部民間情報教育部は、文部省と協議の上、顧問團の仕事に協力すべき日本側委員の人選を、当時、日本学術会議の構想を練つていた学術体制刷新委員会に依嘱した。学術体制刷新委員会の運営委員会は、その依嘱にもとづいて人選を行い、総会の承認を得た上で民間情報教育部に答申し、さらに、それに若干の追加を行つた結果、米國人文科学顧問團日本側委員会の成立を見た。」(「序言」米國人文科学顧問團日本側委員会:1.)

「…各執筆者は、できるだけ客観的にその専門に関する概観を行うように協定したのではあるけれども、過去の主要な動向や業績の記述、これまでの研究態度について反省される欠陥の指摘、将来に対する展望等において、大なり小なり執筆者自身の立場や見解が介入していることは、まぬかれがたいところである。それらの点は、今後、全國学界の批判や協力を仰いで、訂正・増補を加える機会を得たいと考えている。」(同:5.)

占領期にGHQに提出する報告書として言語学・国語学・日本文学から法律学・政治学・経済学に至るまで61の学問領域の項目が立てられ、「考古学」の項目は江上 波夫氏が担当した。
しかし本稿に対して「日本考古学」界から批判が寄せられて、訂正・増補がなされたということを聞かない。

「日本に於ける考古学の発達を略述するには、これを日本國内関係と、國外関係(東亞関係)とに二大別して、記述するのが便利である。」(98.)

「日本國内関係」はよく目にする内容なので、以下では「國外関係(東亞関係)」部分を引用しよう。

「次に、國外関係の、即ち主として東亞関係の考古学は、その始められたのは明治二十八年(1895)日清戦役後、殊に三十八年(1905)日露戦役後のことであり、それより昭和六年(1931)満洲事変までを第一期とし、朝鮮、南満洲、東蒙古、台湾に於いて考古学的調査が活発に行われた。ついで満洲事変より太平洋戦争の終戦までを第二期とし、如上の諸地方の調査が益々盛んに行われるとともに、新に、東満、北満、内蒙、華北、華中等の諸地域にもその探査の歩が進められた。そのうち特に顕著な成績を挙げたのは、朝鮮に於ける総督府の古蹟調査事業と、満蒙に於ける東亞考古学会、東方文化学院、満日文化協会のそれ、華北に於ける東方文化研究所のそれであつた。即ち朝鮮総督府の調査事業は、「朝鮮古蹟図譜」全十五冊その他となつて出版され、関野貞博士はその刊行の功績を以て仏蘭西学士院よりスタニスラス・ジュリアン賞を贈與された。また昭和二年(1927)東京、京都両大学の考古学研究室を中心に、外務省対支文化事業部の後援のもとに組織された東亞考古学会は、満蒙に於いて新石器時代より元代に至る諸種の遺蹟を発掘調査し「貔子窩」以下六冊の東方考古学叢刊甲種(Archaeologia Orientalis, A Series)と、「内蒙古、長城地帯」以下五冊の同叢刊乙種(Archaeologia Orientalis, B Series)を報告書として出版し、東亞考古学を確実な科学的基礎の上に発達せしめた功績は著大なものがあつた。また東方文化学院は満洲、華北に於いて遼金時代の帝王陵・寺院・佛像等の調査、内蒙古に於いて元代の景教徒汪古部の王府址の探査を行い、後者に於ては東亞最初のカトリック大司教モンテ・コルヴィノの羅馬教会(Roman Church)の遺址を発見した。一方東方文化研究所は、華北に於いて南北朝・唐代の佛教遺蹟の踏査を行い、殊に山西省大同の雲崗佛窟に対して、昭和十三年(1938)以後七回に亘り徹底的実地調査を試みたが、わが國考古学者によるこの未曾有の國外調査事業は内外の注目を集め、その結果の予報は「雲崗石佛群」として水野清一氏によつて既に発表された。最後に満日文化協会は、東京、京都両大学の協力を得て、東満輯安縣通溝の高句麗時代山城址並に古墳、東満ワーリン・マンハの遼代帝王陵その他の契丹遺蹟の調査を行い、前者に関しては池内宏、梅原末治両博士による「通溝」(二巻)の大著となつて既にその結果が報告された。かくて東亞、就中朝鮮・満洲・蒙古・華北方面に於いて日本考古学者の果した役割は大きかつたが、太平洋戦争の終戦に伴う結果としてその学問的活動も一時に停止の運命に遭遇した。」(100-101.)

1949年の時点で「東満、北満、内蒙、華北、華中」の用語が使われているのも新たな発見だが、それよりも感慨深いのが、「東亞、就中朝鮮・満洲・蒙古・華北方面に於いて日本考古学者の果たした役割」がいかに大きかったかを誇示する文章が、そのまま侵略考古学の罪責を示す文章となっている悲劇である。
編者が求める「これまでの研究態度について反省される欠陥の指摘」については微塵も記されることなく、「日本考古学」に関する現状認識は、単に「その学問的活動も一時に停止の運命に遭遇」しているに過ぎないわけである。
これは、同じ人文科学委員会が編集する機関誌『人文』第2号に発表された梅原 末治1947「現下の日本考古学 -その展望と将来の課題-」と同じようなスタンスである。

「…東亞関係の考古学は終戦と同時に現地に於ける調査活動は停止されたが、未刊の調査報告の出版計画は着々と行われ、東亞考古学叢刊乙種第五冊「北沙城」の如く既に出刊されたものもあるが、多くは経済的な事由により原稿図版は出来上つていても、出版は困難な事情にある。また日本が多数養成した東亞専門の考古学者が、現地に於ける調査が不可能な今日、漸次学界を離脱する場合が少くないのはやむを得ない現象であろうが、一部にはこの機会にこそわが國と大陸との関係を東亞考古学の立場から調査すべきであるとして、その調査遺蹟をわが國の周辺地域に求め、北海道、北九州等に着目しつつある事実も注目に値しよう。即ち東京大学の考古学研究室と北海道大学は協力して、二十二年北海道モヨロ貝塚を発掘し、所謂オホーツク式文化の解明を企図し、東亞考古学会は二十三年対馬を調査して、古代に於けるわが國と朝鮮、或は朝鮮半島を仲介にした大陸との関係を一層明確にしようと試みている。然しわが國の東亞考古学の専門家達は、将来再び中華民國、韓國その他の東亞諸國の諒解と援助のもとに、東亜の古文化解明のために現地に赴いて自由に活動し得る日のあることを期待し、それに必要なる研究を継続することに努力しているのである。」(103-104.)

かつてもそして今も、その研究目的は「東亞の古文化解明のため」一点張りである。
当然のことながら、筆者が蒙古から持ってきた人骨や考古資料について触れることは以後もなかった。
本当の意味で「東亞諸國の諒解と援助のもとに、…自由に活動し得る日のあること」とするためには、「東亞諸國の諒解」を得ずに持ち出して、日本に持ち込んだ収奪文化財(瑕疵文化財)の取り扱いについて真摯に向き合うことしかないだろう。

しかし1930年代に中国大陸で「学術上の探検」をしていた著者が「中国大陸で学術上の探検に参加した者は侵略主義者・好戦的国家主義者・ファシスト的全体主義者と同様に教職から追放されるための適格性が審査される」とした「勅令第263号」(1946)の存在を知らないはずはないのだが、この堂々たる書き振りはどうだろうか。
適格審査室長からの通達によって自分たちが適用を免れるという確信があったからに違いない。

なお本書の「後書き」ともいうべき「跋」(411-419.)を記しているのが、1948年4月の日本考古学協会成立にも大きな役割を果たしたとされる犬丸 秀雄氏であり、当時の彼の立ち位置(文部省科学教育局人文科学研究課長、人文科学委員会幹事、米國人文科学顧問團日本側委員会幹事)なるものがよく伺われる。



nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。