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江上1937『蒙古高原横断記』 [考古誌批評]

江上波夫(東亜考古学会蒙古調査班)1937『蒙古高原横断記』朝日新聞社
(本記事は、当該書第一章を収録した池内 紀 編1997『江上波夫の蒙古高原横断記』五月書房による)

「かくて昭和五年十二月末、蒙古旅行より北平に帰るや否や、江上は東亜考古学会宛て書信を送ってシリン・ゴルを中心に蒙古高原の地質学的、人類学的、考古学的探査の必要を力説し、学会もその議を容れて、昭和六年四月より東京において実行の準備に取り掛かった。すなわち横尾(人類学)を団長に、江上(考古学)松沢(地質学)竹内(言語学)が隊員となり、旅行の順路、乗り物、時期等に合議し、調査及び旅行に必要な携帯品を整備した。」(「発端」16-17.) 

先週の日本考古学協会「文化財に関する諸問題検討会」では、横浜ユーラシア文化館の方を招いて、オロンスム出土資料などの江上コレクションに関する話しを聞く機会があった。
今回紹介する「蒙古高原横断記」は、オロンスム発掘調査以前の調査旅行に関わるものである。

日本にもたらされたものが、採集植物や鉱物資源だけだったら、まだ問題は少なかっただろう。
しかし…

「遺蹟にはもはや余り石器がなかった。昨年、大体拾い尽くした結果であろう。ただ当時注意しておいた、炉址らしい所を発掘して、二個の炉と付近に仰臥伸展の形で埋葬された人骨一体及び家畜の骨二・三を見い出した。炉の一つは大きな石皿で造られ、他は塊石を楕円形に置いたものであった。人骨は頭部がすでに砂上に露出し、頭蓋骨が欠失していたが、下顎骨・椎骨・肋骨等は砂中に完存した。副葬品と認むべきものは何もなかった。炉に接近して死体を埋めることは古代アジア人の間にしばしば見る風習であるから、我々はこの人骨をもって炉址と同年代のもの、すなわち新石器時代のものと推定した。人骨を発掘中、牧羊の蒙古人が遠くから我々を望んで、馬を飛ばして話をしに来るのには閉口した。我々は蒙古人が来ると、せっかく掘った人骨を再び砂で覆い、彼らが立ち去ると改めて砂を除いてこれを採集した。」(111-112.)

現地の人たちは、わざわざ「話をしに来」たわけではないのではないか。そう思っている当事者は単にお目出度いだけなのか、それとも自分を偽っているのか。

「一方宿舎の我々の所には十時過ぎ、再び拳銃を手に持った三・四人の軍人と役人が寝込みを襲って、「貴君らは武器を携帯していないか。また蒙古より多く石を持って来たそうだが、荷物を見せてもらいたい」と要求した。江上は行李の中に人骨その他があるので冷や冷やしながらも、こういう場合を予想してかねて缶詰ばかりを入れておいた行李二・三を開いて見せ、なかの荷物の一番上に載せておいた瑪瑙の入った袋を取り出して、「我々の荷物はほとんど食料品ばかりで、外にはこんな採集品があるだけだ」と答えると、彼らは顔を見合わせて案外おとなしく帰って行った。」(196.)

やましい気持ちがあるから現地人が訪れるたびにわざわざ「砂で覆い」といった面倒な偽装工作をし、臨検に際しては「冷や冷や」することになったのであろう。
さて、この「採集」され日本に隠し持ち込まれた「人骨」は、今どこにあるのだろうか?

「駅舎の向こう側にあるパオに行くと、老婆がいて我々を招じ入れた。ここで昼食を済ました頃、役人が二人入って来て、黙って奥の正面の上座につき、右脚を立て左膝を折って坐った。もちろん我々の方には見向きもしない。東スニト旗内に入ってから、我々異国人は何となく白眼視されているようで内心皆が不安だ。
老婆は役人に、「メンド―、メンド―」とさかんにお辞儀をして、乳酒を薬缶に容れて勧める。役人は懐中から布に包んだ銀縁の木椀を取り出して一杯ずつ飲んだ。その間も老婆はすこぶる慇懃に応待している。やがて役人は我々の方を見て、傲然たる態度で、「何者で何しにどこへ行くのか」と、前清時代の笠のような夏帽の緒をちょっと締め直しながら詰問した。そこで我々が、「日本の学徒で、蒙古に遊歴に来たものだ。これから東スニトの王府へ行くのだが」と答えると、「武器があるか、遊歴して何をするのだ」などと重ねて訊問した。面倒なので西スニト徳王の紹介状を出して見せると、「これは白文(無印文)だ」と言って、なおも疑い深く視まもっていたが、しばらくして出て行った。」(78-79.)

ただの時ではない。1931年の6月から8月のことである。
満蒙問題」解決のために、陸軍の満洲分離から領有へとギリギリに緊張感が高まっていた時である。
こうした時代状況の只中で、危険を冒して長期の調査旅行を強行する意図は何だろうか。
「遊歴」と思っていたのは当人たちだけで、周りは皆そうは思っていなかった。

「そして北平に帰った翌日であった、あの満洲事変勃発の号外を手にしたのは! かくて今なお我々は我々の旅行の不思議な幸運を思わないわけにはゆかないのである。」(「後記」:199.)

確かに幸せである。と同時に悲劇である。
自分が居る時代状況、自分が属する社会の世界史的な立ち位置を時代制約はあるにせよ、どれだけ客観視することができるか、なぜ「土匪の夜襲」を恐れながら紛争の地を旅しなければならないのか、そのことの意味を私たちに問い掛けている。

「街の辻々には万宝山事件に関して激越な排日的言辞を弄した伝単が貼ってあって、我々はそれによって初めて満洲に、何か日支間の重大事件の勃発していることを知った。そこで通遼の満鉄公所に挨拶を兼ね、事情を聴くべく立ち寄ったが誰もいなかったので、止むなく我々自身で通遼の軍憲及び税官吏が山のような我々の携帯品に干渉してこれを抑留あるいは没収しないように、対策を考えねばならなかった。実に今回の蒙古旅行の成功と不成功とは、蒐集品を無事に搬出し得るか否かの一点にかかっていた。」(197-198.)

「オロンスム出土・採集資料」を中心とする「江上コレクション」が1990年代に横浜市あるいは東京大学に寄贈される時、寄贈対象としての中国・内モンゴル自治区は当事者の脳裏をかすめることはなかったのだろうか?

戦時期における海外植民地・占領地における考古学的調査(侵略考古学)を正当化する言説を丹念に検討していかなければならない。


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