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『北海道・アイヌモシㇼ -セトラー・コロニアリズムの150年-』 [全方位書評]

北海道・アイヌモシㇼ -セトラー・コロニアリズムの150年-『思想』第1184号(2022年12月号)岩波書店

まず「アイヌモシㇼ」の「ㇼ」(小さな「リ」)に戸惑う。
macOSやiOS15では、「アイヌ語キーボード」が実装されている。

「北海道新聞にはアイヌ関連の報道には必ず「民族」と表記する決まりがある。アイヌと呼び捨ては失礼ということらしい。例えば私が記事になるとすると「アイヌ民族のトンコリ奏者」となる。こんな大げさな文字が新聞に載るのは田舎で普通に暮らしている自分にはいささか居心地が悪い。「大和民族の歌手〇〇〇〇」とは普通書かないだろう。」(OKI「民族と呼ばれて」:5.)
 ⇒ ここにも力の不均衡が表れている。数の大小に基づく力の大小。不可視の「大」と「不可視の大」を成立させるために可視化される「小」。わざわざ「女性パイロット」とか「男性客室乗務員」とする意識と同じか。

・「主権と無主地 -北海道セトラー・コロニアリズム-」平野 克弥:7-32.
「それ(「民族」に込められた「共生」)は、自立、つまり自らの生き方を決定できる権利の実現を目指すものであり、「主権」と「無主地」が生み出した偽善に満ちたヒューマニティー、本質的に人種主義的でありながら様々なニュアンスをつけて普遍的な平等や民主主義を唱えてきたヒューマニティーを根底から問い直し、新たな社会関係性の構築を探り続けるための対話と協働を要求している。」(28.)
 ⇒ 全体が示唆に富む。「保護・救済というセトラー・コロニアル・レイシズム」を克服することで、はじめて自己決定権の獲得に至ることが良く分かる。「保護・救済」という「偽善に満ちた」考え方の裏側には、「一視同仁の聖旨」(22.)という詐術が潜んでいる。

・「政治的想像力としての「北方」 -河野広道の北方文化主義と北海道独立論-」葛西 弘隆:33-56.
「河野は内地の植民地主義を批判するいっぽう、開拓を出発点とする北海道の近代性それ自体 -社会制度と歴史認識をふくむ- が植民地主義的に構成されていることへの認識を欠いていた、より正確にいえば抑圧した。」(49.)
 ⇒ 何を語ったかではなく、何を語らなかったかによって、筆者の無意識の意識が明らかにされる。結局は、北海道版の「国民の物語」だったのではないか、という身も蓋もない悲しい話しである。

・「思想として消費される<アイヌ>」石原 真衣:57-68.
「私がこれまで接してきた多くのアイヌの研究およびその関連の研究や問題にコミットするほぼ全ての知識人と支援者が、自らの人種的特権性や思想的消費に無自覚であった。」(61.)
 ⇒ すなわち「わかっていないことがわかっていない」。すなわち「何が問題なのかわからない」ということである。「もう研究なんてやめてほしいんだ!」(57.)と訴えるアイヌ男性に私たちはなんと答えればいいのだろうか?

・「いま、戸塚美波子「1973年ある日ある時に」を読む」マーク・ウィンチェスター:69-90.
「北海道百年記念塔は、この社会の意識のしるしだ。」(81.)
 ⇒ 「石を投げられた」という記録はわずかに残されているが、「石を投げた」という記録はほとんどないのではないか。

・「ヒロインとしてのアイヌ -「ゴールデンカムイ」における傷の暴力-」内藤 千珠子:91-108.
「すでに作動している暴力から隔たることは、容易ではない。そのためには、死角を見るための方法を、物語の記憶を現在に重ねる思考のフレームによって生みだしていく必要がある。」(104.)
 ⇒ 見えない、気付かないから「死角」なのだが、それを見ることの困難さを思う。それは、自分という認識の幅とも言えるのだろう。

・「劇映画におけるアイヌ表象 -内田吐夢『森と湖のまつり』(1958年)と成瀬巳喜男『コタンの口笛』(1959年)を中心に-」鳥羽 耕史:109-131.
「アイヌの姉弟がぶつかる問題を「ヒューマニズム」で描いた原作とその映画化は、むきだしの差別が許容される場所では、さらなる差別に利用される結果を生んでしまったことになる。」(128.)
 ⇒ 消費する側が消費される側の声をどれだけ聞き取れるか、そもそも「する側」と「される側」という不均衡な関係性をどのように解消していくことができるか。

・「「国民的映画シリーズ」の誕生と北海道 -なぜ「寅さん」にはアイヌが登場しないのか-」小田 龍哉:132-148.
「北海道の「自然」とアイヌの「文化」をめぐる表象と言説は、フィクションと現実をまたいでゆるやかに同期していた。」(146.)
 ⇒ 柴又という東京の一角を起点とする「国民的」ストーリーから先住民族の気配が欠落していた理由は、目指すもの(国民の物語)にとって不都合だったからではないか。

・「「消されぬ毒」 -北海道における使い捨ての未来と先住民族の土地との関係性-」アンエリス・ルアレン:149-163.
「先住民族コミュニティは、伝統的な生態学的知識を制定し、これらエネルギーと核による植民地主義の試みに、自己決定により対抗している。先住民族コミュニティは、人間以外のものとの関係を確立し、また、人間の生物学的境界も保護しようとしている。先住民族が先祖伝来の知識体系に目を向けることは、資源コロニアリズムを通じて行われるセトラーによる環境破壊システムとともに、文化、地理、言語、国の境界を越え、包含されるものである。」(162.)
 ⇒ ウランなどの放射性物質について、インド東部ジャールカンド州の先住民族は「ガジュマルの木に宿る怨霊」、オーストラリア・アボリジニは「近付いてはいけない巨大なトカゲ」、アメリカ南西部ナバホ・ネーションでは「黄色い怪物」とされている。北海道南部のアイヌにとって原子力発電所は「オコッコ・アペ(化け物の火)」である。

・「「犠牲区域」から拡がる環境区域 -先住民研究の知見と、紡がれる関係性のなかで-」石山 徳子:164-183.
「環境破壊の現場である現場を、もとの状態にできるかぎり戻していくこと、それこそが自分たちの使命であり、生き方でもあるという誇らかな主張は、石油パイプラインに反対する先住民たちの声とも響きあう。どちらもセトラー・コロニアリズムの文脈において破壊が繰り返されてきた、先住民族と故郷の土地による双方向の関係性、類縁関係を取り戻していく営みである。」(177.)
 ⇒ ミナマタやフクシマに連なる意識である。もちろんニブタニとも。

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