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ルアレン2013「遺骨は語る」 [論文時評]

アンエリス・ルアレン(中村 歩 訳)2013「遺骨は語る -アイヌ民族と人類学倫理についての考察-」『グローバル化のなかの日本史像 -「長期の一九世紀」を生きた地域-』岩田書院:289-314.

文末に「本論文は2007年12月の "Bones of Contention: Negotiating Anthropological Ethics within Fields of Ainu Refusal" Critical Asian Studies 39(4)をオリジナルとしている」と記されているように、日本語訳では原著論文からの意訳と大幅な削除がなされていて注意が必要である。例えば原著論文の119あるFootnotesは69の註に(58%)、61あるReferenceは46の参考文献に(75%)切り縮められている。
筆者の所属は、カリフォルニア大学サンタバーバラ校である。

「アイヌ解放運動は、日本国家に対してというより、「アイヌ学者」に対して異を唱えることで始まった。アイヌ学者はアイヌ民族に「滅び行く民族」という烙印を押しただけでなく、理由も示さぬままアイヌから採血し、墓地から遺体を掘り起こし、頭蓋骨を取り出したため、アイヌ社会からならずもののレッテルを貼られた。掘り出された頭蓋骨は帝国主義体制の下、愛国心昂揚のため研究に供されたが、以後も列島住民との比較のために使用され続けている。
アイヌ民族自身が専門知識を身につけていくのにつれて、かつてとは異なり、学者とアイヌ民族やホストコミュニティとの社会的距離感は変わってきている。運命の裏返しのように、研究者は自分がホストコミュニティからノーと言われる弱い立場に身を置いていることに、ようやく気づいた。今日、研究倫理に関心の高い研究者は、アイヌ民族自身による研究計画とその実施をサポートしており、その上で初めて自分自身の研究に取り掛かっている。」(289-290.)

これが世界的な研究動向から見た日本のアイヌ研究の現状である。
それにも関わらず、日本の研究者にはホストコミュニティとの社会的な距離について鈍感で、自らが相対的に弱い立場にあることに気づいていない人が多いようである。

「北海道各地のコミュニティと横断的に関わりつつ調査研究を行うなかで、筆者が直面した現実は次のような課題をつきつけた。つまり、人類学の責任や研究者のモラル、文化人類学的倫理への問いかけであり、さらに参加型の文化人類学へ向かうための創造的対話である。従来のアイヌコミュニティを対象とする民族学的なフィールド調査は、人類学の創始者や「植民学」といった過去の亡霊によって枠付けられて作り上げられてきた。日本における人類学の歴史とは、アイヌコミュニティがいかに医学・考古学研究によって搾取されて来たかを逆説的に表すものでもある。
科学的進歩のための開拓と喪失の物語の中には、現代アイヌの記憶の中で最も強烈な様相を呈しているものが含まれる。それ以上に、文化的政治的運動家としてアイヌを自覚する人に深く影響を与えているので、アイヌコミュニティで調査をしている人に対して無視できないほどの強制力を含む場合がある。本論はそのアウトラインを述べることからはじめたい。
ついで、数ある調査段階におけるホストコミュニティに対する研究者の責任と研究倫理に関する最近の議論、つまり、合衆国と日本の人類学上の対話や先住民族研究者に対する批評を合わせて紹介する。ここで重点となるのは、日本民族学会研究倫理委員会によって提起された「アイヌ研究に関する見解」の先見性であり、にもかかわらず、何故、委員会は最終的な倫理的指針の成立をあきらめたのかということである。
さらに、研究者とアイヌコミュニティそれ自身の関係を発展させる上での主導権について紹介する。ここでは米国研究所再評価会議による影響と、何故、研究査定評議会(IRB)が日本に現時点で存在しないのかについてアプローチしてみたい。そして最後に、日本の人類学が将来の参加型人類学へ移行するために、アイヌの要求に合わせ柔軟に適応していくような変化を如何にして作り出していくことができるのかについて、考察していきたい。」(290-291.)

「研究査定評議会」とは見慣れない日本語であるが、原文は "Institutional Review Board" であり、世に言う「研究倫理委員会」である。「IRB」は、本論におけるキーワードの一つである。
「参加型人類学」(engaged anthropology)も、「関与人類学」という訳語が定着している。

「帝国主義学者児玉作左衛門によるアイヌに対する形質人類学のための墓の発掘の物語は、アイヌコミュニティの神経を逆撫でするもの」(295.)であり、7000点に及ぶ児玉コレクションは「主にアンティークや骨董品業者から手に入れたことを自らの回想録でのべている」(308.)が、取得時に自らが記した日記の記述と整合性が取れない。

「アイヌ研究に対する抗議への回答として、日本民族学会は「アイヌに関する研究倫理声明」を起草・採択し、その中でアイヌ研究における一般的倫理基準を確立し、研究者がアイヌを全く異なった別個の民族として認識することを求め、共同研究とアイヌ問題の一般への教育を奨励した。しかしながら、社会全体に対する倫理規定設立への努力はほとんど実を結ぶことはなく、1992年、何の前触れも無く研究倫理委員会は二回目の会合をもって突然解散した。委員会は民族学研究の会報で簡潔な報告を公開し、研究者と研究される側の関係、ジェンダー関係、研究の還元義務、著作権・肖像権、情報提供者への報酬、言語と翻訳というような問題を、日本民族学会へ研究倫理のための原案起草直前に提起すると、「倫理アレルギー」と呼ばれるようなリアクションが起こった。ほとんどの研究者は、強制的な倫理規定によって研究の自由が侵害される可能性があることや、外部の監視に曝されることをあげて強く拒絶した。」(297-298.)

それから四半世紀が経過した2017年に北海道アイヌ協会・日本人類学会・日本考古学協会によって「これからのアイヌ人骨・副葬品に係る調査研究の在り方に関するラウンドテーブル報告書」が発表された。
これを受けて3学協会に日本文化人類学会が加わり、2019年に「アイヌ民族に関する研究倫理指針」の策定が進められて(案)という文言が付されて公表されたが3年が経過しても未だに「未定稿」のままである。
ここでも筆者の言う「倫理アレルギー」が強烈に作用しているであろうことが想定される。

2022年6月5日に日本文化人類学会第56回研究大会において研究倫理委員会特別シンポジウム「『アイヌ民族に関する研究倫理指針(案)』から考える、文化人類学の過去と未来にむけての展望」か開催された。
発題者3人(太田 好信・松田 素二・窪田 幸子)の発表要旨が公開されている。

研究倫理とは、これから行われる研究を規定するだけでなく、現在の状況(収奪された遺骨や副葬品や文化財の保管状況など)についても規定されるのは当然である。ホストコミュニティの心情を尊重することなく、自らの学問研究のみを固守するような「研究至上主義」に起因する「倫理アレルギー」は論外である。

「先住民族コミュニティは倫理規制が研究者の表面的な倫理行動のみを取り扱っており、先住民族自身にとって真に必要で価値あるものとしては機能していない、と批判している。寧ろこれらの規制は大学や研究機関の都合のいいように運営されており、裁判沙汰となった時に研究機関に有利に働くように仕組まれているとも言える。」(301.)

研究倫理指針が策定されて、個々の研究計画や過去の研究調査によって取得された遺骨・遺物の取扱いについて一定の方針が示されたとしても、なお継続する問題は数多い。
筆者の勤務する大学に設置されている研究倫理委員会(IRB)と筆者においても様々な葛藤が繰り広げられたようである(302-303.)。
しかしそうした交渉を通じてのみ、研究者が主体となった独善的な枠組みではなく、ホストコミュニティと共に立ち上げる新たな研究パースペクティヴが開けてくることだろう。

「…民族学的研究上攻撃されやすい人間集団を保護するためにデザインされた研究査定評議会検査は、長期にわたる相互関係上の一時点、すなわち事前の同意の瞬間のみにしか的を絞っておらず、多様で複雑なインフォーマントの声と意思を含んではいない。それだけでなく、研究査定評議会のカテゴリーは、研究者と研究対象者のカテゴリーの間の地位や範囲の力の差について認めていない。カテゴリーに縛られたモデルはまた、特にインフォーマントが特定の政治的指針を持っている時には、彼らにとって限界や可能性を脅かすものとなるであろう。研究計画上の相互関係や最初の相談、結果の分配、ホストコミュニティの方針のもとでどのように研究を評価し共同させて行くのかという疑問等々は、すべて研究課題として継続中である。それらは方法論的発展を通して且つ夫々のフィールド状況にあわせ、民族学的な正確さや権威を維持しようとするのであれば、インフォーマントに対して責任のある新しい民族学を提示する、ということを視野に入れなければならないだろう。」(305-306.)

倫理というものは一朝一夕に形成されるのではなく、相手との相互的なやり取りを通じて双方において形作られるものである。



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