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太田2007『暴力批判論』 [全方位書評]

太田 昌国 2007『暴力批判論』太田出版

数ある評論集の1冊である。

「当時の若者たちの多くが夢見たように、私も、現存の世界秩序が変わらなければならない、変えなければならない、とは考えていた。そのための社会・政治運動は必要であり、それを党派に属して実践する者はいるだろうが、自分はそこからは自立して、ひとりの個人として運動総体に関わる道を模索すればよいーそれが、当時の私の考えだった。そして、その考えは、ほとんど変わることなく現在にまで続いている。」(14.)

著者は1943年生まれ、私より一世代上だが、政治的・社会的な立ち位置がよく似ており、親近感を覚える。
そうした先行者が経験した60年代・70年代の運動とその挫折から得た教訓は、何か。

「私(たち)は、どこで、どんなふうに、間違ったのか。どこが不十分だったのか。「敵」の存在や攻勢にだけ刃を向けても、結局は、虚空に向かって斬りつけているだけの、むなしさを感じる。それは、言葉を換えるなら、「暴力論」においては、「民衆の対抗暴力」という問題を、「国家暴力」の存在がある以上はごく当然の現れ、とする段階に思考の水準を留めずに、その先を見据えたうえで、考えを展開するということを意味する。そこでようやく、私たちは「民衆の対抗暴力」の「可能性」と「不可能性」という問題に行き着くことになる。」(20-21.)

全共闘世代の方たちと話していていつも感じるのは、「暴力」を巡る違和感である。ヤクザ映画やプロレスが根強い人気を得ていたというのもよく分からないが、最終的には「暴力革命」という結論に落とし込まれて、それしか答えはないのだろうかと思い続けてきた。ファノンやゲバラの生きた時代状況を考慮しつつも、もう少し違った道筋はなかったのだろうか、こうした「もやもや感」に本書はある種の示唆を与えてくれる。

「20世紀の終わりに、私たちは、社会的公正と平等を求めるという「ユートピア主義者」の夢が潰えるのを見た。ユートピア主義者は、私の外部にいたのではない。それは、ウカマウ(ボリビアの映画製作集団:引用者)自身であり私自身であった。「力弱き者の立場に立ち、体制を批判する」という、当然の立場を選択した人びと(それは、「私たち」の謂いだ)が、「暴力の行使」を通して作り出した恐るべき世界を見てしまったのだ。暴力の行使が、夢が潰えたことの唯一絶対の理由ではない。だが、日本だけではない、世界のどこを見ても、それが重大な理由のひとつをなすことは、「解放」や「革命」の過程で、そしてそれが成就して後の過程で、軍隊(闘争の過程にあっては、それが、ゲリラ、人民軍、解放軍、革命軍などと呼ばれていようと)が果たした役割を全体としてふりかえったときに、見えてくるのである。」(32.)

当時の状況を体験したことのない者として、凄惨な内ゲバの様相などを知るにつけ、「闘う相手は違うだろう」との思いを禁じ得ない。これが人間の本性なのか、必然なのか? いや、そんなことはないはずだ。

「(1)「敵の先制的な攻勢がある以上、これに武力で対抗することは不可避であり、必然的だ」とする思考方法に留まることは、少なくとも止めること。それは、「なぜ」「いかにして」「いつまで」などの問いを封じ込めることに繋がり、「その選択は暴力の応酬の、無限の連鎖である」とする批判的な解釈に応答しないことを意味する。
(2)私の場合、前衛党絶対主義への批判から党的な結集や党派性には十分な警戒心をもち、そこからの距離を自覚的に取ってきたにもかかわらず、(第三世界の)解放軍、ゲリラ軍、人民軍などに対しては、過剰なロマンティシズムを付与して捉える傾向が強かった。仮に、それが過渡的には必要な活動形態であることを認める場合であっても、本来的には、軍の廃絶、すなわち兵士のいない社会、戦争のない社会を、未来から展望するという視点を手放さないこと。
(3)自衛隊の湾岸戦争への参画は、戦後史の決定的な転換点を画した。自衛隊の海外派兵に対する批判活動を、現行憲法9条に依拠しつつ、さらには、いかなる国家にせよ国軍を持つ根拠自体を批判し、その廃絶を企図する展望のなかで行なうこと。」(44-45.)

著者の辿り着いた自己批判を含む到達点である。昨今、喧しい「敵基地先制攻撃能力」など想像もできない頃に記された文章でありながら、ある種の既視感すら覚える恐ろしさである。物事の根本から考え、多くの人の思想を鍛えることなく、小手先での対処を続けてきた結果のように思われて仕方ない。

「<民衆の対抗暴力>という問題は、当然にも、「武装し戦争を仕掛ける国家」への対応関係の中で生まれてきた。したがって、広く「武装=戦争」が孕む問題という枠組みの中へ、この問題を差し出すことができる。「武装=戦争」という問題に関して、従来にない積極的な論点を提起しているのは、私の考えでは、一部の考古学者とフェミニストである。」(46.)

として、言及されるのが佐原 真である。

「2002年に亡くなった佐原が構想していた「戦争の考古学」をなお引き継ぐ考古学者がいて、その成果を私たちが学び続けることができるとすれば、武装=戦争の起源を明らかにし、その廃絶を見通す歴史的・哲学的な思考は、いっそう強靭なものになるだろう。広く人類全史の中で、武装=戦争の問題を捉えようとする佐原の志向性には、人の視野を大きく広げてくれる魅力があった。
晩年の佐原は、これからの課題は「ジェンダーの考古学だ」と熱っぽく語っていたという。それは、「武装=戦争」にかかわるフェミニストからの問題提起が、根源的な場所を指示していると考える私にとって、十分に腑に落ちるところだ。」(47.)

これは、私のとっても、十分に腑に落ちるところである。
性差別と民族差別に無意識であった時代には、軍隊性奴隷問題が前景化することはなかった。
そして、文化財返還問題である。

「刺身のつまのように扱われたテレビ・ニュースの中に、目と心を惹きつけるものがあった。2005年4月下旬のことである。ムッソリーニ支配下のイタリアが、占領していたエチオピアから1937年に略奪した古代の石柱、オベリスクの一部が68年ぶりに返還されたが、それをエチオピアの住民が歓喜の声で迎えている画面であった。古都アクスムにあったオベリスクは全長24m、総重量160トンという。少なくとも1700年前にさかのぼる古代エチオピアの文化遺産は当時3基あったが、イタリア軍はこのうち1基を三分割して持ち去って、ローマに据えていた。イタリア政府は敗戦後すぐにオベリスクの返還を約束していたが、重量が輸送を阻んでいたと報道されているが、略奪してローマまで運んだ時にはどうしたのだ、と半畳をいれたくなるような話ではある。」(123.)

「半畳を入れる」という慣用句は、もはや死語であろう。座布団ならまだしも、たとえ半畳でも投げ込まれて当たったら痛そうである。
持ってきた時の熱意・欲望と比較して、返す際の熱意・欲望が余りにも情けない。古代エジプトのオベリスクは、未だイタリアの各地に多く残されているようだし、パリのコンコルド広場、ロンドンのテムズ川河畔、ニューヨークのセントラルパークにもある。人間の<もの>に対する欲望、すなわち「物欲」について、考えを深めなければならない。

「…植民地支配と侵略戦争に乗じて強奪された文化財、美術品、書籍などはしかるべき場所に返還されなければならない、という当然の倫理を、人類社会は、まだ十分には実現できていない。
もっとも、これは、われらが足元にも及ぶ問題である。東京国立博物館、大阪市立美術館、根津美術館、大倉集古館などに収蔵されている高麗青磁や新羅仏などは、いかなる「学術調査」によって、あるいはいかなる経路の「盗掘」ないし「買収」によって入手に至ったのかという問題は、韓国との間であれば本来ならば1965年の日韓条約交渉の過程で合同調査を行ない、返還にまで至るべきものであった。「文化財返還目録」なる大部の資料を作って交渉に臨んだ韓国側研究者に対して、日本側が「日本にある文化財は、いずれも不当不法にわが国に搬入されたものではなく、正当な手段、手続きによって招来されたものであるから、これを韓国に返還すべき国際法上の義務も理由もない」と言い張ったことは、よく知られている。その結果、ごくわずかの文化財は「引き渡し」になっただけであった。韓国政府は、先だって日韓交渉時の一部文書を公開したが、戦後補償に少しも積極的ではなかった日本政府側の態度を批判する論点の中に、文化財協定の見直しも含めるべきだろう。」(123-4.)

「日本考古学」はもとより日本社会では、この「当然の倫理」が受け入れられない。日本考古学協会が文化財返還を拒絶した理由は、「国政レベルの事案だから」というものである。グローバリゼーションの時代にこんな弁明が通用すると思っているのが、「日本考古学」の「国際感覚」である。

あるいは拉致問題について。

「人間が「社会」的な動物であるという意味における「社会」人として、私はこの問題(日本人拉致事件:引用者)に対峙しよう。間違っても「国家」人として、すなわち「国民」として発言する場に自らをおくことはしまい。それは、私が、地上に現存した(している)いかなる「国家」指導者といえども、その人物が他の「国家」との関係において行なう扇動や対立感情の鼓舞に、本質的な疑念を抱いているからである。」(279.)

20世紀後半の「日本人拉致事件」については、常に20世紀前半の「朝鮮人拉致事件」を対比させることが肝要である。

そして本書の結論。

「国家がふるう最大の暴力としての戦争、日本国家が決して手放そうとしていない死刑制度という暴力、産業先進国と多国籍企業の利益が優先されるグローバリゼーション(全地球化)が孕む経済的暴力、国家=政府が日々実施する政策の中の、見えざる暴力ー所与のものとして「神聖」視されている、「国家」から生まれるこれらの暴力を批判しつつ、これを廃絶しようと正当にも考える側が弁える条件とは何か、廃絶し得た先に何を展望するか。本書を貫く基本的なモチーフは、それに尽きる。」(288-9.)

「廃絶し得た先に見るもの」、それをキリスト教用語では「神の国」と表現してきたのではなかったか。

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