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「日考協4・27宣言」をめぐって [雑]

議案第143号 第79回総会における審議事項について

大竹理事から、東京都の五十嵐彰会員から第79回総会における審議事項として、①第77回総会時に、倫理綱領に基づき、戦時期に収集された大陸の考古資料について調査を行うよう求めた要望について、2010年の第1回国際交流委員会で検討されたが、再度、見解の説明を希望すること。②当協会に設置されている各委員会の構成メンバーを、日本考古学協会公式サイト及び『会報』紙上において開示を求めることの2点が提出されたとの説明があった。①について審議の結果、倫理綱領は協会員個人の自覚を求めているものであること、国際交流委員会報告(2010年9月理事会・報告第67号)にもあるように「国政レベルでの事案である」ことから、総会の審議事項には取り上げないこととなった。②については、公式サイトでの会員以外の開示には、委員会の性格上、慎重を期す委員会もあるため総務会において整理・検討を行った上で、7月理事会に提案する予定で進めることになり、総会の審議事項とはしないことで、承認した。
(2013年4月27日開催理事会議事録より)

 一般社団法人 日本考古学協会が、今後「国政レベルでの事案」を扱わないとしたら、いったい何が問題なのだろうか?

「一般社団法人として新たなスタートを切った本協会は、これからも従来どおり社会に開かれた活動を活発に行って参ります。もちろん、自由で多様な会員同士の交流・親睦という基本的性格は大事にしながらも、日本の、いわばアカデミーとしての社会的役割を、より積極的・主体的に果たしていくことも大切ではないか、と思っています。」(菊池徹夫2009「会長就任あいさつ」『会報』第167号:8.)

「国政レベルでの事案」を取り扱わないで、どのように「アカデミーとしての社会的役割を、より積極的に果たしていくこと」ができるのだろうか?
委員会の構成メンバーすら明らかにすることができない組織が「社会に開かれている」と言えるだろうか?

「最後に、日本考古学の国際化についても問題が提起されています。ご承知のように日本においては明治時代以来、きわめて豊富な調査研究の蓄積があります。そして、私たちはそれを享受してきました。しかしながら、この学問的蓄積は世界の考古学にどの程度貢献してきたのでしょうか。あるいは、World Archaeologyにおいて日本考古学はジャンルとして確立されているのでしょうか。この問題については国際交流委員会でも検討されてきたところですが、今後積極的に世界に発信し、貢献する手立てを講じる必要を痛感しているところです。」(田中良之2012「会長就任のご挨拶」『会報』第176号:7.)

一般社団法人 日本考古学協会は「国政レベルでの事案」は扱わないと「世界に発信」することで、World Archaeologyにおける日本考古学は不名誉なジャンルとして確立されてしまうことを危惧するばかりである。

まず確認すべきは、日本考古学協会は、全ての「国政レベルでの事案」を扱わないのか、それともある特定の「国政レベルでの事案」(例えば文化財返還問題)を扱わないのかである。
もし前者(すべての「国政レベルでの事案」を扱わない)だとすれば、これは重要問題である。少なくとも定款の第2条「目的」の語句の加筆修正は避けられないし、そのための総会での審議も欠かせないだろう。単に理事会での審議で済まされる問題ではない。
もし後者(文化財返還問題だけを扱わない)だとすれば、これも難問山積、袋小路に入り込むのは必定である。
なぜなら、文化財返還問題は当面問題とされている戦時期における半島や大陸などからの不法な収奪文化財の返還(①)だけではなく、近代以降の北海道などにおけるアイヌ民族からの収奪文化財の返還(②)もその重要な部分を構成しており、さらには各大学の考古学研究室などが発掘した各地方の考古資料の返還(③)も含んでいるからである。
①は「国政レベルでの事案」だから扱わないが、②・③は扱うのか?
それとも①と②は「国政レベルでの事案」だから扱わないが、③は扱うのか?
それとも①も②も③も全て「国政レベルでの事案」だから扱わないのか?

こうなると何が「国政レベル」で何が「国政レベル」でないかなど、一々詮索して線引きすること自体が無意味であることが良く分かる。
ある遺跡が破壊の危機に瀕しているから、その遺跡が所在する地元市町村や監督官庁などに保存を要望する。
その遺跡を発掘調査した大学考古学研究室が所蔵している出土資料を地元市町村が返してほしいと希望しているので、両者が話し合って共同プロジェクトを促進できるように要望する。
どちらが「国政レベル」で、どちらが「国政レベル」ではないという問題ではないだろう。

「もし私たちが、現代世界において自分たちの人間としての位置づけを十分に理解しようとするならば、過去の問題は重要である。私たちは過去に出自をもつのであり、現在の私たちのありようを決定づけたのも過去だからである。それゆえ私たちは、狂信者や偏屈な考古学者たちが、過去に関する私たちの見方を混乱させたりめちゃくちゃにしようとする(時には損得勘定から、しかし時には単にものごとを素直に考える能力に欠けるという理由から)ことに、断固として反対しなければならない。」(レンフルー&バーン2007『考古学』:579.)

プルーセル&ムロゾフスキー編2010『現代考古学の理論』(【2011-01-06】)、スケア&スケア編2006『考古学の倫理』(【2011-01-20】)、ライドン&リズヴィ編2010『ポストコロニアル考古学』(【2012-11-21】)などを想起するとき、これ以上「世界考古学」と「日本考古学」の溝が広がらないように切に希望するばかりである。
こうしたことは、2年前の研究発表の会場で述べたことなのだが、うまく伝わっていないようである(五十嵐・森本2011「文化財返還問題の経緯・現状・課題」『日本考古学協会第77回総会 研究発表要旨』:82-3.)。

日本考古学協会が定めた倫理綱領は会員のみが制約を受けるものであり、倫理綱領を定めた会自身、とりわけ理事会は何ら制約を受けるものではないとする、「アカデミーとしての社会的役割」を根底から覆すような暴論は速やかに撤回し、2013年度の理事会が自ら定めた倫理綱領に基づく健全な倫理感覚を早急に取り戻されるように強く願うものである。

また2013年度の理事会に対して、一般社団法人日本考古学協会定款の第2条(目的)の項目に掲げられた5つの原則のうちの「公開」という言葉の意味するところを今一度十分に吟味されるように、これまた強く求めるものである。

いったい何故このようなことになってしまうのだろうか?

それは、「はじめに結論ありき」だからである。
すなわち、「審議事項として取り扱わない」あるいは「取り扱いたくない」という本音が裏にあるから、話しがややこしくなる。
何とかその結論を正当化しようとするものだから、そこで述べられる様々な理由や根拠の数々は、それぞれ筋が通らなくなる。

「日本考古学」の社会的責任および戦争責任を直視することが必要ではないか。

最後に44年前に混乱する日本考古学協会に対してなされた提言を、再び引用しておく。
肝に銘じるべきである。

「…「学会が学問研究のわく外にまで伸張すべきではない」という意見が示されたことである。
学問が社会に、一般的な知識を供給するだけや、自己満足的なもの、あるいは趣味的なものであったりするだけでは、学問の意味はないであろう。
一体、学問がいまの世の中で存在する基盤は何なのかを問いたい。考古学のみならず、他の学問が現代の社会についてどんな役割を果しているのであろうか。(中略)
学問研究ということと社会・政治とは、現実問題としていま一線を劃して考えることはできないではないか。学問研究のわく内で学問をしてきた姿勢は、戦前・戦中を通じての皇国史観に対する批判から逃避し、考古学資料に没入することで自らの生命を保ち、戦後のブームの中での考古学の社会的評価をいつまでも保とうとした発展性のない考古学界の体質が示しているようにいまでも流動的な社会状勢の変化に対応できずにいるではないか。
このような総括的な反省にたって、いままでの「趣味的な考古学」や「専門バカ的な考古学」から脱却し、今後のあるべき考古学界、日本考古学協会への展望が生まれるであろうし、そのために、われわれは相携えて行かねばならないだろう。」(小林 三郎1969「考古学界断想」『考古学ジャーナル』第35号:24.)


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鬼の城

全くその通りです。密室主義・密行主義がなぜ横行しているのか、と言う問題がまずあります。もちろん、協会執行部もそれでよいとは思っていないはず(そう信じたい)ですが、どうしてしてそうなるのかを抉り出すことが必要だと思います。


それと、「日本考古学」の社会的責任および戦争責任を直視することが必要ではないか、との五十嵐さんの意見に賛成ですが、こういう基本的なことから逃げ出したいという気持ちが暗黙の了解事項としてあるのでしょう。しかし、これも40数年前に提起し、うやむやになってしまったことは、提起した私たちの責任もあると思います。私たちはもちろん「うやむや」にする気はないのですが、相手がどうしても逃げを打つような対応をしてしまい、その「逃げる」ことに楔を入れることが徹底していなかったのだと総括しています。

だが、安倍極右政権、石原、橋下どものこれまた極右の跋扈をしている現在、そう言う連中を看過できません。そして、日本考古学もそう言う連中にすり寄ることなく、過去と現在とをきちんと向き合うとこが必要とされていると思います。さらに、「学問の政治的中立性」などあるわけがなく、政治問題に取り組むことも必要だと思います。


問題ははっきりしているのですから、その問題をあいまいにせずにきちんとものごとを考える、そして行動するようにしていかねばならないと思うのです。




by 鬼の城 (2013-05-24 22:07) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

学問と政治を分離して考える分離主義、あるいは戦争責任を回避する棚上げ思考こそが、特定の政治的信条の表明にほかならない、という基本的な自己認識が欠けているようです。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2013-05-25 07:09) 

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