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ツィルク2020『石の目を読む』 [全方位書評]

アレ・ツィルク(上峯 篤史 訳編著) 2020『石の目を読む -石器研究のための破壊力学とフラクトグラフィ-』京都大学学術出版会

読了するのに、難渋する。
同じ「石」を対象としつつ、先に論評した「いい感じの石ころ」とは、様々な意味で対極にある。

「石器の多くは、ガラス質の岩石を打ち割って作られるが、打撃で生じた、幾重にも重なった剥離痕が、その製作経過や道具に期待された用途や作り手の嗜好、文化伝統、そして失敗の証拠でさえも、包み隠さず記録している。まるでテクストのページを繰るように、剥離痕跡を丹念に読んでいくのが石器研究の常道である。その読解は割れ現象のメカニズムについての経験的な理解に支えられているが、割れ現象とそれによって生じる痕跡についての見解を深めれば、得られる情報の量や確度は飛躍的に高まるはずである。破壊力学はそのための知識を提供し、それを加味して石を読むのが石器のフラクトグラフィである。」(口絵 i)

単なる「翻訳」ではなく、「訳編著」というやや聞き慣れない用語が採用されたのは、翻訳が訳者と今は亡き原著者との「共作として仕上げられる」「原著を基本としつつも、その意図を違えない範囲で用語説明や注釈の加筆、構成の変更、挿図の加削除を施した」(訳編著者まえがき)という経緯による。

「フィッシャー」は「ねじれハックル」あるいは「テール」(ウェイク・ハックル)、「リング」は「リップル」あるいは「リブマーク」、「うねるリング」は「ラフル」、「バルバースカー」は「ハックルスカー」の一部など、フラクトグラフィ特有の用語が頻出して慣れるまでが大変である。いちいち索引を引いて、確かめる。
それでも「スカープ(液体誘起模様)」や「ミスト」などは、口絵の写真を示されてもなお理解が困難である。

「”ハックル”という語は高速ハックルという意味をもつ一方で、「ハックル領域で見られるハックル」という意味でも使用されている。両者の区別は文脈に照らして判断するしかなく、混乱を招いている。」(108. 注1)

「平面的な亀裂に対する応力の加わり方は3種類ある。モードⅠは開口様式である。亀裂面に対して垂直に引張応力が加わる。この様式は、平面に垂直な亀裂面に歪みを引き起こす。モードⅡはすべり変形様式(面内剪断様式)で、亀裂面に平行かつ亀裂前線に垂直に応力が加わることで発生する。亀裂表面は、図の矢印で示すように徐々に歪みを作っていく。モードⅢはティアリング様式(面外剪断様式)で、亀裂面と亀裂前線ともに平行する方向に応力が働いて生じるため、図のように亀裂表面に歪みが生じる。各様式における応力分布と歪みの発生は、弾性定数と応力拡大係数で表せる。」(117.)

それぞれに簡単な挿図が添えられているのだが、基礎知識がないために理解が困難である。また様々な数式が示されているのだが、正直ほとんど理解不能である。何らかの科学的根拠があるのだなと思いながら読み進めることになる。

「石刃や剝片の背面側打面付近に稜があるかないかは、剥離をうまくコントロールするために重要である。稜は剝片を誘導するのに効果があるので、押圧剥離による斜状平行剥離の際には、割り手は稜を利用する。並列剥離を施すなら、このような稜はあまり重要ではない。」(149.)

「平行剥離」と「並列剥離」の違いが、すぐさま理解できる石器研究者がどれほど居るだろうか? 索引にも見当たらず、途方に暮れる。

「石割りの初心者でさえ実感しているように、うまく剝片が取れるかどうかは、石核の形状によるところが大きい。石割りの作業時間のほとんどは、石核の整形に費やされているといっても過言ではない。」(160.)

そうなのだ。打ち割る一撃のために、どれほどの時間を費やすか、それにかかっている。昼休みのほんの1時間ぐらいで、まともな剝片が剥がせるはずもない。
先史社会の彼ら/彼女らと現代の私たちとでは、石割りに対する思い入れや切実さに大きく越えることのできない深い隔たり(カズム)があるのだ。

「フランソワ・ボルドの記録によれば、オーストラリアの先住民は、石を割り始める前の約45分間、ただただ原石を注意深く観察していたという。」(16.)
「あるスペインの古民族誌によれば、メキシコでは特別な石刃を生産する際、職人は5日間にわたる断食を強いられたという。曰く、うまく石刃を剥離するためには必要なことで、もし石刃が折れてしまったら、それは職人がきちんと断食しなかったせいらしい。」(同)

遥かなり、石器製作技術研究。

「すべての破片の横折れ面は圧縮リップをもっているはずで、ときには引張縁にそった細線状のミストをともなっている。両者とも曲げが関与して生じたものであるが、まっすぐな石刃でも現れる。強く湾曲した石刃では、背面側から亀裂が発生する。」(195.)

これが本書の最終文、すなわち195頁にわたる結論である。唐突感は否めない。
「え?! これで終わり?」と思わず、先の頁を繰ってしまう。
「訳編著」という経緯のなせる結果なのだろうか?

最後に余談ながら、obsidianは「黒曜石」ではなく「黒曜岩」に訳語がほぼ統一されていて、マイナーな「黒曜岩」派としては嬉しい。破調をきたすのは、以下の一文のみ。
「国際黒曜石学会による黒曜岩産地の探索に加え、…」(38.)
共にobsidianの訳語と思われるのだが、訳し分ける意味が読み取れなかった。

もう一つ。
「もちろん、剝片を岩質ごとに分ける作業は非常に主観的であることに留意しなければならないが。」(189.)
これが「母岩識別」に対する世界の一般的な評価であろう。

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