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東亜考古学会編1939『東京城』 [考古誌批評]

東亜考古学会編1939『東京城 -渤海国上京龍泉府址の発掘調査-』東方考古学叢刊 甲種第五冊  TUNG-CHING-CHENG Report on the Excavation of the Site of the Capital of P'o-hai. The Far Eastern Archaeological Society. Archaeologia Orientalis Ser.A. Vol V.(『東方考古学叢刊』甲種刊行会編1981再版、雄山閣)

B4版、本文100頁、写真図版120頁、折込図版3頁、英文要旨52頁、露文10頁
とにかくでかい。とにかく重い。コピーをするのに引っくり返すだけで、筋肉痛になりそうだ。
私が持っている最大・最重の考古誌は、芹澤長介編1979『聖山』だが、それを確実に凌駕する。

正しく帝国主義的な考古誌を体現している。

「東亞考古學會は夙に昭和三年頃から本調査の必要を痛感し、爾来その実行計画を進めてゐたが、その機が熟さずして数年を過ごした。然るに現地当局の隔意なき諒解を得、我が外務陸軍両当局の熱誠なる支援の下に、昭和八年六月先づ第一回の調査を決行したのである。発掘班としては、東京帝國大學文学部考古学研究室から原田・駒井の両名、京都帝國大學文学部考古学教室から水野清一氏が之に参加し、なほ写真技師として京都の東方文化研究所の羽舘易氏を迎へた。又本遺蹟の歴史的性質に鑑み、特に東京帝國大學教授池内宏氏を主班とする歴史班を組織し、京都帝國大學文学部東洋史研究室の外山軍治氏が之に参加し、当時奉天国立図書館主任であつた金毓黻氏同館員金九経氏も亦之に會同した。なほ調査が建造物の遺構を對象とする関係上、南満洲鉄道株式会社の好意に依り当時大連高等工業学校教授なりし村田治郎博士の協力を得、地図作成の必要から陸軍当局の快諾を得て、関東軍陸地測量部の片野弥一郎、黒田一両氏の同行を見た。又調査の途中、京城帝國大學教授鳥山喜一氏は飛行機に由つて現場に翔来し、歴史班に加つて調査を援助された。昭和九年五月の第二回調査に当つては、原田駒井及び水野氏の外に新たに東京帝國大學文学部考古学研究室の三上次男氏及び東京帝室博物館の矢嶋恭介氏を加へ、なほ写真技師として大連から窪田幸康氏を帯同した。又村田氏は前回と同様発掘実測に協力された。而して前後二回に亙る一切の庶務会計交渉等に関しては東亞考古學會幹事島村孝三郎氏が之に当たられたのである。蓋し本調査に関しては、殆んど渤海研究者を総動員した観があつて、期日の短少であつたに比較してその成果の決して鮮くなかつたことを信じて憚からないのである。
発掘の遺物は便宜上一旦之を東京帝國大學文学部考古学研究室に輸送し、原田・駒井等の手に依つて之が整理を完了し、又調査研究を進行して茲に本書の刊行を見るに至つたのである。」(2-3.)

「帝」系研究者を中心に国を挙げて協力する体制、正に「総動員した観」が伺われる。
それにしても「発掘の遺物は便宜上一旦之を東京帝国大學文学部考古学研究室に輸送」され考古誌の刊行を見るに至って以来、3/4世紀が経過しているが、相変わらず「そのまま」というのは一体どうしたことだろう。
調査主体である「東亞考古学会会則第六条」には以下のように記されているのだが。

「本会ノ調査ニ依リテ得タル資料ハ其調査地ノ属スル国ニ之ヲ置クモノトス」

「第一回の調査のため我々一行が東京城に入つたのは昭和八年六月六日の冷雨降りしきる午後であつた。恰もこの城邑が半月程以前に焼き払はれてゐた時で、途中の危険も鮮く無かつたため、我々は海林から荷馬車に分乗し、一日行程で寧安に到着するまでの間を我が陸軍の討伐隊と同行し、ついで寧安から東京城までの九邦里余の間を我が領事館警察署長澤田寛幸氏外警官十一名及び現地の保安官宇佐美勇蔵氏外同隊員二十数名の護衛を煩したのであつて、此等当局の厚意に対しては殆んど謝辞を知らないところである。」(5.)

なぜ「この城邑が半月程以前に焼き払はれてゐた」のか、私たちは深く思い巡らさなければならない。誰によって、何のために。「焼き払はれ」た人びとは、その後どうしたのだろうか。

「抗日武装部隊は図寧線建設工事に対しても攻撃を加えた。抗日武装部隊は、1932年はじめから1934年3月までのあいだに、50数回にわたって延吉‐百草溝間の自動車路を襲撃し、図寧線工事材料、食料品などを奪取したという。
また、抗日武装部隊は、1933年4月~1937年3月に、図寧線の諸地点を339回襲撃したという。1935年に満鉄側は、「三線[図寧・寧佳・林密線]の背後地一円は、治安維持の困難なること満洲第一であつて「満洲の匪賊をして最後迄残らしむる地帯」と迄称されてゐる」とのべていた。」(キム チョンミ1992『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』:233.)

「1945年以後、日本人研究者は、日本の「植民史」(すなわち、侵略史)を、日本人の民族的責任の大きさをはっきりさせるという目的を強固に持っておこなってきただろうか。もしそうであるならば、日本人近現代史研究者は、まず、1860年代以降に日本人がアジアで何をやってきたのかを集中的に実証的に詳細に明らかにしようとしただろう。だが、1876年および1895年以後に台湾で日本人が何をしたか、”日清戦争””日ロ戦争”時に朝鮮、中国で何をしたか、1918~1925年にシベリア、朝鮮、間島、サハリンで何をしたか・・・を明らかにしようとする日本人の研究はあまりにもすくない。
誰が、何を、どのようにしておこなったか、ということが明らかにされなければ、おこなったことの責任の大きさも、責任の質も、責任のなかみもわからなくなってしまう。最近の日本の政治・文化状況は、誰が何をしたのかをあいまいにし、日本のアジア侵略の責任の所在をわからなくしてしまう方向に、よりすすんでいるように思われる。」(同:7.)


タグ:侵略 植民地
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