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竹岡2014『考古学崩壊』 [全方位書評]

竹岡 俊樹 2014 『考古学崩壊 -前期旧石器捏造事件の深層-』勉誠出版

「旧石器時代の石器研究は非常に難しい学問である。基礎を固めないと暴走し、どこに行くのかわからない。それにしても、「超能力者」を信じて、60万年前の超進化した原人、日本列島内での原人→旧人→新人への進化、と言うオカルト的説を論じた日本の旧石器時代研究はあまりに情けない。この学問の基礎は型式学(石器を観察して分析すること)である。どれほど自然科学によって「科学化」しても、学問自体の科学性とは関係がない。型式学がこの学問の科学性を保証するのである。唯物史観やニューアーケオロジーや何らかの「理論」による解釈という演繹的方法が全滅したことが示すように、この学問(考古学全体)が現代人ではないヒトを対象とする以上、徹底した資料分析が必須なのである。解釈は分析の果てにある。」(277.)

「唯物史観」も「ニューアーケオロジー」も「解釈という演繹法」も「全滅した」とは思わないが、それはさておき、注目すべきは「批判の仕方 -富山遺跡について-」(224-233.)と題された箇所である。

「彼らの最大の根拠は阿部祥人の論文にある。彼らは、阿部が「藤村前期旧石器」を支持していた、捏造発覚以前に書いた論文を根拠に、私の「富山遺跡=前期旧石器時代説」を否定する。そして、批判している研究者はいずれも、「藤村前期旧石器」を認めていた者である。奇妙な構図であるが、論理的に正しいのだろうか。」(230.)

竹岡氏が挙げる「富山遺跡=前期旧石器時代説」を否定する(批判している)研究者は、会田容弘(1999・2001)・安斎正人(2001)・松藤和人(2010、註番号が(90)となっているが(86)の誤りであろう)・芹沢長介(2003)の4名である。対して肯定する(賛同している)研究者として挙げられているのは、岡村道雄(1998)・山田晃弘(1999)・鎌田俊昭(不明)の3名である。
いずれも、「藤村前期旧石器」を認めていた者」である。何が「奇妙」なのか、よく判らない。

更に問題なのは、以下の一文である。
「1の記述からも、阿部は実際の資料(富山遺跡出土資料:引用者挿入)を見ていないと判断される。」(232.)
この文章と以下の一文とは、どのように整合性を有するのだろうか?
「私は2001年7月に山形県埋蔵文化財センターに赴き、実資料を拝見した(図1)。」(阿部祥人2004「富山遺跡の「前期旧石器時代」説をめぐって -竹岡俊樹氏の反論にこたえる-」『山下秀樹氏追悼考古論集』山下秀樹氏追悼論文集刊行会:10.)
竹岡氏は、山形県埋蔵文化財センターに問い合わせて、2001年7月に阿部氏が山形県埋蔵文化財センターを訪れていないことを確認したのだろうか?
それよりも、本書では「竹岡俊樹氏の反論にこたえる」とする論文が参考文献として挙げられていないが、竹岡氏は阿部2004をちゃんと読んだ上で、「批判の仕方」と題する部分を記したのであろうか? よもやそんなことはないだろうと考えるが、もしそうでないとしたら、すなわち阿部2004を読まずに当該部分が記されたとしたら、これほど不幸なことはないだろう。そして竹岡氏の周囲に阿部2004の存在を知らせる研究者が誰一人として存在しなかったという不幸をも思わざるを得ない。

「この学問ではまっとうな議論や論争がなされたことがない。」(232.)
「まっとうな議論や論争」が成立する大前提は、自らの意見に対して提出された相手の意見をよく読むことだろう。

つまるところ、竹岡氏と阿部氏あるいは竹岡氏の「富山遺跡=前期旧石器時代説」を肯定的な研究者と批判的な研究者の違いは、「富山遺跡のほとんどの石器は完成品で、製作途上の事故によって放置された未完成品ではない」(232.)と考えるか、それとも「残された礫石器や剥片石器は道具として完成されたものではないだろう」(230.)と考えるかの違いに帰着する。
すなわち同じ一つの石器、例えばある礫核石器を見て、完成した道具である礫器(ハンドアックス)と考えるか、それとも試し割りがなされた素材である石核と考えるかの違いである。
これは、側縁の角度を測ったり調整加工の種別を記載する「資料分析」とは別次元の「解釈」の問題である。
常に「解釈は分析の果てにある」(277.)のではなく、「解釈はある時は分析と同時に、ある時は分析以前になされている」のである。

事は重大である。
なぜなら、
「縄文の石器と前期旧石器とが見ただけでわからないのなら、それはまさに八百屋さんがマツタケとシイタケとを区別できずに売っているようなものですよね。それじゃ八百屋さん、商売成り立ちません。なぜ考古学者は商売成り立つのか。それはマツタケとシイタケを間違って売っても一般の人々がわからないからです。卑俗な言葉で言ってみれば詐欺みたいなものです」(126.)
と述べられているからである。

そして本書は、全て以下の一文にかかっている、すなわち「崩壊」しかねないからである。

「石器についての判断や記述は私の述べることを信用していただきたい。」(3.)


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