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東村2021『近現代北海道とアイヌ民族ー和人関係の諸相』 [全方位書評]

東村 岳史2021『近現代北海道とアイヌ民族ー和人関係の諸相』三元社

「アイヌ民族の存在を否定する論者は、ほぼ全員といっていいほど「民族」の客観的定義は存在しない、アイヌを勝手に自称する人間がいるだけだと主張する。そこには自分の民族帰属の問題がきれいさっぱりと欠落し、民族呼称の問題が名付ける側と名乗る側の関係によることが顧みられていない。民族の存在を否定することは、当然権利の否定でもある。」(231.)

「アイヌ民族の存在を否定する論者」は、必然的に「日本民族の存在も否定」しなければならなくなる。
「混血によって純粋なアイヌ民族が減少している」とする論者は、必然的に「混血によって純粋な日本民族が減少している」としなければならなくなる。
当たり前である。
「アイヌ問題」は、必然的に「日本人(和人)問題」である。
筆者に一貫しているのは、こうした自省的な「和人の当事者性」意識である。

「アイヌや在日コリアンから「お前は何人だ」と問いつめられて「日本人」が答えに窮している場面に私も遭遇したことがある。たとえば次のような問いかけに対して「日本人」はどのように答えうるだろうか。
「アイヌは日本人か否かを論ずる前に、その「日本人」とは何かを明確にすべきで、正体もわからないものに付属されるなど奇怪な話である。こんなことだから、「アイヌ系日本人」とか「アイヌ系住民」などという「苦しまぎれ」の新語が平然とまかり通ってしまう。アイヌは「アイヌ」であって「アイヌ系」ではない。ましてや「ウタリ」とか「ウタリ系」などと、アイヌ側でない者が使うなど、こっけいきわまりない」
「アイヌから言えば「シサム」、沖縄の人たちから言えば「ヤマトンチュウ」であるかれら(あなたがた)は、自分自身を何と呼ぶのか。それが決まれば「〇〇系日本人」となり、アイヌも「アイヌ系日本人」となり、沖縄の人たちも「琉球系日本人」となって呼称が対等に成立する。このことからも、今一番必要なことは、あなたがた自身の姿勢である。」(成田得平「アイヌがアイヌであるために(上)(下)」『北海道新聞』1977.3.10-11)。
結論からいえば、この一アイヌからの問いかけに対し、十分な説得力をもって回答しえた「日本人」を私は寡聞にして知らない。」(40.)

第5章「アイヌの頭蓋骨写真報道が意味するもの」については、原著論文について論評した【2017-10-14】。

第6章「アイヌ政策の分析枠組み」についても、非常に示唆に富む。
筆者の述べる「アイヌ政策」は「近年の日本政府のアイヌ民族に対する諸政策」であり、核燃料サイクルや原子力発電所を巡る核エネルギー政策関連分野との比較検討がなされて、「アイヌ政策複合体」と名付けられている。

「…本章では私は「ムラ」を否定的な意味合いで使うことは避けたい。その理由は、高知県窪川町で原発建設計画を「もみ消した」人びとを描いた猪瀬浩平の見解に賛成するからである。猪瀬は、「原子力ムラ」が中央の組織をさす場合でも原発立地(計画のある)地元をさす場合でも、自明の前提として「ムラ」が閉鎖的・保守的なものと見なされ、特に後者に対しては前近代的なイメージが押しつけられるという(猪瀬2015:8-12)。猪瀬の批判は、原発を阻止した地元の論理は「ムラ」を前近代性=閉鎖性・保守性を前提とした議論では説明できないという点から来ており、私も共感する。それに加えて猪瀬の議論を敷衍すると、中央の組織に対しても安易に「ムラ」と名付けるべきではないという論点が提示できる。後述するように、たしかにアイヌ政策を推進する側に閉鎖的な特徴は認められる。しかしながら、それは前近代性から来ているというよりは、むしろ形容矛盾かもしれない「近代的閉鎖性」とでもよぶべきもののように思われる。換言すれば、閉鎖性や保守性を前近代的特徴として出発するのではなく、むしろ近代官僚的機構によって生じた閉鎖性をとらえる必要がある。」(144-145.)

私も無意識に見聞きしていたので、教えられた。
こうした視点から現在の日本国政府によるアイヌ政策が「主流化と周辺化」、北海道アイヌ協会とアイヌ政策推進会議の共依存構造、「制度化されたレイシズム」が論じられる。

「北海道大学に保管されてきた多くのアイヌ遺骨の処遇をめぐる問題に関わっている北大文書開示研究会という組織が、「さまよえる遺骨たち」というブログを使って情報発信している。そのブログで、2016年8月6日に北海道アイヌ協会主催、日本人類学会と日本考古学協会の共催で行われたシンポジウム「考古学・人類学とアイヌ民族 -最新の研究成果と今後の研究のあり方-」に関して、北大文書開示研究会の一員である植木哲也が「フェアな引用をお願いします」という一文を寄稿している。それを読むと、報告者の近藤修という古人類学・形態人類学者が、植木の『学問の暴力』の内容をほぼ正反対のものに歪めて用いていたという。簡単にいうと、植木は児玉作左衛門がアイヌの意向を無視して発掘を強行したことがあったにもかかわらず、「児玉自身はアイヌの理解と協力のうえで発掘を行なったと述べている」ことを批判しているのに対して、近藤の引用では「児玉はアイヌの理解と協力のうえで発掘を行なった」ことにされ、植木が児玉を批判している論旨がすっかり抜け落ちていた。さらに、植木によれば、内容が歪められて引用されたのは植木の著作のみではなく、拙稿(本書第5章)もそうだったらしい。「東村氏は「学問のあり方を容認してきた社会」について検討しているのであって、氏自身が「学問のあり方を容認している」わけではないと思われます」と植木が書いている一文から推測すると、拙稿が学問や社会批判ではなく、反対に学問のあり方を容認したものとして利用されたようである。歴史修正主義と同根であるといってもおかしくないだろう。」(244-245.)

アイヌ遺骨をめぐる古人類学者・形態人類学者たちの対応については、「バイオ植民地主義」として的確な批判がなされている【2022-12-16】。
「制度化されたレイシズム」あるいは「バイオ植民地主義」と決別するに際しては、日本人類学会と北海道アイヌ協会の帰趨が重要であると指摘されている(東村2022「「アイヌ研究」をめぐる植民地主義と植民地主義批判の入れ子構造 -バイオ植民地主義者の著作を中心に-」『多文化共生研究年報』第19号:34.)

原子力産業複合体にせよ、アイヌ政策複合体にせよ、ここまでその実態が明らかにされている以上、最終的には主権者たる国民一人一人の意識に行き着くことも論を待たないだろう。
文化振興に限定した日本的先住民政策を突き詰めるのか、それとも世界の先住民政策に適合した先住権を認めるのか。
研究倫理指針の行方そして副葬品などの文化財返還とも密接に関わる事柄である。


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