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富山遺跡(研究史・研究姿勢) [捏造問題]

ある主題について研究を進める上で、手順というものがあるだろう。
ある<遺跡>について論じる場合にも、求められるやり方というものがあるだろう。

1998年に山形県埋蔵文化財センターは、『富山遺跡発掘調査報告書』を刊行した。
これは日本の旧石器時代遺跡について、公的機関が「前期旧石器時代でもそう新しくない段階」「実年代では約30万年前ころに相当する」(126.)と結論付けた数少ない報告である。
こうした評価を巡って、論争が行われている。

A:必須文献(富山遺跡を論じるうえで、目を通しておかなければならない文献)
まずは前期旧石器なのか縄紋なのか、真っ二つに分かれている富山遺跡を主題とした文章群を読まなければならない。特に、ある論に対する反論が提出されている場合には、どの部分がどのように論じられて、それがどのように反論されているかを確かめながら、順次論の展開を確認する必要がある。
*竹岡 俊樹1998「富山遺跡Ⅱ3G層出土の石器文化」『富山遺跡発掘調査報告書』付編:1-9.
*阿部 祥人2000「富山遺跡の「前期旧石器時代」説 批判」『山形考古』第6巻 第4号:23-32.
*竹岡 俊樹2001「石器真偽判定「前期旧石器」観察記」『SCIENCE OF HUMANITY BENSEI』第34号:148-175.
*阿部 祥人2004「富山遺跡の「前期旧石器時代」説をめぐって -竹岡俊樹氏の反論にこたえる-」『山下秀樹氏追悼考古論集』:9-14.
*竹岡 俊樹2005「山形県寒河江市 富山遺跡」『前期旧石器時代の型式学』学生社:8-44.
*竹岡 俊樹2014「批判の仕方 -富山遺跡について-」『考古学崩壊』勉誠出版:224-233.

これら論争当事者の文献は、いずれも富山遺跡の評価を定めるうえで欠かせないものであり、「どうでもよかった」などといって済ませられる性格のものではないだろう。ましてや論争の当事者にとっては。

B:言及文献(富山遺跡について何らかの言及がなされている文献)
まずは原報告でも参照されている「富山遺跡」の初出文献である山形県立寒河江工業高等学校1970『人口のはじまりの研究』第4集を紐解かなければならない。
こうした前史を踏まえて、先の論争が行われているわけである。
次にこうした論争を踏まえて、それぞれの研究者が富山遺跡に対してどのような評価を与えているかを確認しなければならない。これらについては、竹岡2014で簡潔にまとめられている。

・岡村 道雄1998『石器の盛衰』講談社
・山田 晃弘1999「東日本の前期・中期旧石器文化」『考古学ジャーナル』第444号
・会田 容弘1999「1998年の考古学界の動向・旧石器時代(東北)」『考古学ジャーナル』第445号
・安斎 正人2001「前期旧石器捏造問題に関する私見」『異貌』第19号
・会田 容弘2001「2000年の考古学界の動向・旧石器時代(東北)」『考古学ジャーナル』第473号
・岡村 道雄2002『縄文の生活誌 改訂版 日本の歴史01』講談社
・芹沢 長介2003「金木から座散乱木まで」『考古学ジャーナル』第503号
・松藤 和人2010『検証 前期旧石器遺跡発掘捏造事件』雄山閣

この他、「反応はなかった」(竹岡2014:98.)とされた読売新聞の特集記事(2000年1月4日)に多分に影響を受けたと思われる人類学者による文章(「富山遺跡は、明らかに日本にも原人がいたことを物語る有力な”証拠”だと考えられるのだ」(馬場 悠男2000年8月1日『ホモ・サピエンスはどこから来たか』河出書房新社:158-161.))も、その絶妙な発行時期と併せて重要である。

C:参考文献(当時の研究状況を知るうえで参考となる文献)
次に富山遺跡を巡る研究状況、特に捏造発覚以前の山形県における「前期旧石器研究」の動向の中に富山遺跡を位置づけていかなければならない。
どうしたら、良いだろうか?
一つの手掛かりは、1987年に発表された岡村道雄「日本前期旧石器研究の到達点」『国立歴史民俗博物館研究報告』第13集:233-246.である。当時、東北歴史資料館に勤務していた前期旧石器研究の第一人者が記した捏造発覚以前の正に「到達点」を知ることができる。
そこで記された山形県内の前期旧石器時代遺跡は、図92の#33から#39までの7遺跡である。

#33:明神山(加藤 稔・安彦 政信1973「山形県明神山遺跡 -第一次調査の概要-」『石器時代』第10号:18-38.)
#34:富山(寒河江工業高校1970『人工のはじまりの研究』第4集 寒河江市富山遺跡の発掘と旧石器の追求)
#35:陣ヶ峰(寒河江工業高校1969『人工のはじまりの研究』第3集 西村山地区先縄文文化の様相)
#36:庚申山(加藤 稔1970「旧石器時代」『山形県史 考古資料』)
#37:長岡山(寒河江工業高校1970)
#38:大山(寒河江工業高校1970)
#39:上屋地B(加藤1970)

これが、発覚以前に山形県内における「確実」な「前期旧石器時代遺跡」とされた資料群であり(なぜなら「不確実な遺跡は除外」と明記されているから)、それぞれの文献を読むことによって、どれほど「確実」であるのかを確かめることができる。
また論争当事者の一方の背景を知るには、阿部 祥人1976a『沼ノ平遺跡出土石器群の研究』慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室小報シリーズ2 が欠かせない。さらには、阿部 祥人1976b「山形県出土のルヴァロア様石核について(本文英文)」『人類学雑誌』第84号および阿部 祥人1992「山形盆地の丘陵上で発見された円盤形石核について」『第四紀研究』第31巻 第4号という資料紹介も参考になるだろう。
以下の一文は、こうした経緯を経て、正に「富山問題」を予示するかのように記されたものである。

「こうした石器作りの特徴は、ユーラシア側に求めれば遠くヨーロッパや西アジアの中期旧石器におけるムステリアンという石器文化に近似するところもある。しかし石器、とくに単純な礫器や剥片石器の特徴は、背景に文化的関連性や時間的な脈絡がなくとも、近似したものが生じる可能性がある。」(阿部 祥人1993「東アジアのなかの日本旧石器文化」『新視点 日本の歴史』第1巻 原始編、新人物往来社:15.)

こうした諸文献を読み込むことで読者は富山遺跡に対する自らの評価を定めていくわけだが、その際に必要な文献はあらゆる手立てを尽くして収集に努めなければならないのは論じるまでもないだろう。もちろんどんなに努力しても、入手が困難な文献もあるだろう。しかし入手できなかったことの言い訳に、「仲間内の出版物だから」とか「執筆者が抜き刷りを送ってこなかったから」などとするのはどんなものだろうか。
研究者にとって欠かせない文献なのか、それとも読まなくてもいい文献なのかは、発表された媒体の性格に因るのではなく、あくまでも発表された論文の内容に因るべきである。
これは、自らの研究に対する姿勢(主体性)の問題である。
「知らないことは責められない」とする立場と「知らなければならないことは知らなければならない」とする立場の違いである。


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