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阿部1976『沼ノ平遺跡出土石器群の研究』 [考古誌批評]

阿部 祥人 1976 『沼ノ平遺跡出土石器群の研究』慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室編、小報2 (青色表紙の研究室版と灰色表紙の学生社版の2種類ある)

「沼ノ平遺跡の調査は、1960年に数点の石器が発見されたことに端を発する。その後、約10年間にわたり当遺跡の発見者阿部酉喜夫や慶応大学考古学研究会員等によって踏査がつづけられた結果、400点以上の石器(註1)が表面採集された。それらはすべて打製石器であり、その他には土器などの遺物が全く発見されなかった。このような遺物組成の性格が注目されたため、周辺の地域に数多く存在する先土器時代遺跡の一連の調査結果との関連が問題となり、より精密な調査を行なう必要性が認められるに至った。
そこで1972年4月、慶応大学考古学研究室の清水潤三教授を中心に、山形大学の加藤稔氏等の協力を得て、遺物包含層と遺物相互の共伴関係の確認を主要な目的とした発掘調査が行われたのである。」(11.)
[註1] ここでの「石器」とは、二次加工の有無に関わりなく人工の加えられた石片(stone artifact)の意である。(30.) 

寒河江市史編纂委員長を務められた御尊父が遺跡の発見者であることが記されている。
地元では当時(あるいは今も?)、大先生・小先生と呼び分けられているようである。

「山形県の最上川中流部の高位段丘に位置する沼ノ平遺跡から、打製石器583点及び土器片3点が採集されているが、土器片は微小でしかも保存状態が悪く資料としては限界を多く持つため、本稿では特に石器のみを分析資料として扱った。しかし石器も90%以上が表面採集による資料である。したがって、これらを技術的、形態的な面から分析し、資料相互の関連性と石器組成の性格について検討を行なった。その結果は次のように要約される。
(a) 主に、石器の素材としての剥片及び石核などの分析によれば、当遺跡の石器製作は基本的にはほぼ同じ技術体系のもとで行なわれたと理解できる。
(b) 二次加工のある石器の形態的な分類の結果、縄文時代に普遍的ないくつかのタイプが中心的に存在する。
(c) (a)(b)の事実から、当遺跡の石器群は一部を除いて、大局的には縄文時代に関連するものと推定できる。
(d) 当遺跡の石器組成を他遺跡と比較すると縄文時代の古い時期に関連のもとめられる二、三のタイプが存在する点、および石鏃の占める比率が非常に低い点などが大まかに把握できる。
(e) 以上のような石器組成の特徴を示す沼ノ平遺跡は、土器、石鏃などが遺物組成の中心を占める既知の一般的な縄文時代の遺跡とは、ある異なった活動の場としての機能を持っていた可能性のあることが指摘できる。」(27.)

著者24才の調査、28才の刊行である。
様々な資料的な限界を抱えつつも、当初の目論見とは異なる結論となった訳である。
しかしそれが、著者の「その後」を方向付けることになり、また「富山問題」への伏線ともなった。
朝日町の沼ノ平と寒河江市の富山は、共に最上川上流域の左岸におよそ16kmほどの距離を隔てる。
本報文刊行と同年に発表された一文から。

「石器の分類・同定の基本は、資料のもつ各種の特徴を的確に捉えることにあり、その中においては、資料の定性的特徴が重視されるのは言うまでもないことである。最近、石器の形状を定量化して、その特徴をより客観的に表現しようとする傾向が認められるが、これも石器の特徴をできるだけ的確に捉えようとする一つの方法であろう。しかし、石器は形状に基づく定性的・定量的な分析では表現されない重要な一面がある。それは、各々の石器が独特の形状をもつに至った製作工程である。この工程を検討するためには、十分な資料と複雑な分析の手続きを要するが、問題の性質によっては石器研究に欠くことのできない方法である。」(阿部 祥人1976「山形県出土のルヴァロア様石核について」『人類学雑誌』第84号:251.)

ちなみにここで報告されている「ルヴァロア様石核」も、阿部 酉喜夫氏によって1936年に寒河江市高瀬山で採集されたものである。
そして沼ノ平と高瀬山石核の報告から四半世紀の年月を経て、捏造発覚直前である2000年の「富山遺跡の「前期旧石器時代」説 批判」に至るわけである。

「自分のフィールド内での新発見に対する、多分に感情的な批判だろうが…」(竹岡 俊樹2014『考古学崩壊』:232.)などという軽薄な批判ではない由縁である。


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