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実見絶対主義 [総論]

ある人は、ある資料を基にした考古学論文を書く時、あるいはある資料に基づいた考古学論文を批判する時には、その論の基となった出土資料を必ず見なくてはならない、と主張する。
資料が収蔵されている場所に赴くことなく執筆された論文あるいは批判は論外であり、認められない、という。
「考古学の基本はモノを見ることだ。何かを言うのなら、まずモノを見てから言え。」
こうした考え方を、「実見絶対主義」という。

もちろんある資料について論じる時、その資料を実際に見るに越したことはない。
このことについては、あらゆる人、全ての人が賛同されるだろう。
実際に見なければ論じられないことも、沢山あるだろう。
見れば見るほど詳細に分かること、ということもあるだろう。
しかし、あらゆる場合に、あらゆる人に実際に資料を見ること(実見)を求める、見る事なく記された論は無条件に却下するというのはどうだろうか。

その資料を論じる全ての人が、その資料を実見できるとは限らない。
例えば、日本の石器研究者がフランスのテラ・アマタ遺跡出土資料について論じるとしよう。
もちろんフランスに赴いて、実際の資料を見るに越したことはないだろう。
しかしあらゆる人に、そうした機会が与えられている訳ではない。
見たいと願っても叶わない人もいるだろう。
そして全ての場合に、そうしたこと、すなわち実見が必要であるとは限らないのではないか。

ある場合には、その遺跡の考古誌(発掘調査報告書)を検討することで、その目的を達しうる場合もあるだろう。
ある場合には、その遺跡の出土資料について記された研究論文を読むことで、その目的を達しうる場合もあるだろう。
それは、日本語で書かれた論文を読めばその目的が満たされる場合もあれば、場合によってはフランス語やロシア語の文献を読まなくてはならない場合もあるだろう。

こうしたことは、何も考古資料に限らない。
例えば、エッフェル塔について論じる時に、実際にエッフェル塔を見るに越したことはないだろうが、エッフェル塔について論じる全ての人が、実際にエッフェル塔を見なければ論じる資格がないということではないだろう。

すなわち、考古資料(出土資料)を論じる場合には、様々なレベルが有りうるということである。
そのレベルに応じた様々なアプローチが有りうるということである。

それにも関わらず、あらゆる人に実際に出土資料を見ることを求める。
書かれた論文やなされた批判の内容やレベルの如何を問うことなく、ただ「見ていない」という一点を以てけなす。
これを、「実見絶対主義」という。

かつて「密着思考」と称した考え方と相通じるものである。


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