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緑川東問題2020(その1) [総論]

「ただ、大形石棒の機能時に立っているか否かについての議論は、地域や時期によって異なると推測されるが、ジェンダー論の問題ではなく、あくまで出土状況に対する研究者間の見解の相違に起因するものである。」(阿部 昭典2020「遺構論」『縄文時代』第31号:200.)

本当にそうなのだろうか?
そもそも「大形石棒の機能時」とは、いったいどのような状況を指すのだろうか?
そのような状況が具体的にイメージできないからこそ「第2の道具」といったカテゴリーが提唱されたのではなかったか?

それよりも問題なのは、緑川東問題からジェンダー論を切り離す意図である。

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デパント2020「何が問題なのかわからない白人の友人たちへ」 [総論]

ヴィルジニー・デパント(谷口 亜沙子 訳)2020「何が問題なのかわからない白人の友人たちへ」『世界』第935号:52-55.

筆者は、フランスの女性作家である。

「私たちフランス人は人種差別主義者ではないが、私はこれまでに黒人の男の大臣を見た覚えがない。私は50歳で、いくつもの内閣を見てきたのだが。
 私たちフランス人は人種差別主義者ではないが、刑務所に入れられている人の多くは、黒人とアラブ人である。
 私たちフランス人は人種差別主義者ではないが、私が本を出すようになってから25年間、黒人のジャーナリストに質問をされたのは、ただの一度だけだった。アルジェリア出身の女性に写真を撮られたこともただの一度しかない。
 私たちフランス人は人種差別主義者ではないが、私が一番最近カフェのテラス席につくことを断られたのは、アラブ人と一緒のときだった。一番最近身分証の提示を求められたのは、アラブ人と一緒にいるときだった。一番最近私が待ち合わせをしていた人が電車に乗り遅れそうになったのは、駅で職務質問を受けたためだったが、その人は黒人だった。
 フランス人は人種差別主義者ではないが、外出禁止令が出ていた間、外出する権利を証明する紙切れを持っていないという理由でテイザー銃(スタンガン:引用者)で撃たれていた一家の母たちは、郊外の貧困地に住む白人ではない女たちだった。その間、私たち白人の女は、ジョギングをしたり、7区の市場で買い物をしたりしていた。
 フランス人は人種差別主義者ではないが、コロナウイルスによる死亡率がセーヌ=サン=ドニ県は全国平均の60倍であると報じられたとき、人々はその話を適当に流したばかりでなく、「ちゃんと家にこもっていないからだ」とすら言いあった。セーヌ=サン=ドニ県はフランスの全国土のうち、住民あたりの医師の数が最も少ない県なのだが。」(52-3.)

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四面楚歌 [総論]


2020-04-20 (7).png


コロナ禍の最中、自らを取り巻く現状を概観してみた。

きっかけは、懸案の課題について昨年の半ばに相次いで公表したことであった。
旧石器については、2019年6月に大正大学で開催された日本旧石器学会のシンポジウムで「砂川モデルの教訓」と副題して発表した。
縄紋については、『考古学ジャーナル』728号(6月刊行の7月号)において「緑川東を読み解くために」と副題した文章を書いた。
一方は旧石器資料の製作・搬入に関わる問題、一方は縄紋時代の敷石遺構から見出された大形石棒の設置時間の問題と一見すると隔たりのあるテーマのようだが、考古資料の読み取り方という点で第2考古学的には極めて重要な同じ構図の問題群である。

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「アイヌ民族に関する研究倫理指針(案)」 [総論]

「アイヌ民族に関する研究倫理指針(案)」
2019年9月12日版
(12月10日修正意見を加筆)

「研究行為は、学問の自由の下に行われるものであるが、研究行為やその成果が研究対象となる個人や社会に対して大きな影響を与える場合もあり、倫理的または社会的に様々な問題を引き起こす可能性がある。すなわち、学問は社会に対して説明責任を負うこと、また研究対象と学界に倫理的責任を負うことを自覚する必要がある。研究対象となる個人や社会の権利は、科学的及び社会的成果よりも優先されなければならず、いかなる研究も先住民族であるアイヌ民族の人間としての尊厳や権利を犯してはならない。」(6.)

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緑川東問題2018(その5) [総論]

なかなか収束が見えない。

7月3日から9月2日まで開催されている東京国立博物館における特別展「縄文 -1万年の美の鼓動-」の展示キャプションから
「147 整然と横たえられた大形石棒 重要文化財 石棒
 東京都国立市 緑川東遺跡出土
 縄文時代(中期~後期)・前3000~前1000年
 東京・国立市(くにたち郷土文化館保管)
石敷きの建物跡の底面から、炉跡を挟んで2本ずつ4本が整然と横たわるように出土した。形や大きさなどに強い規格性がうかがえる。大形の石棒がほぼ完形で、かつ4本が整然とまとまって出土するのは極めて珍しい。」

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マスキュリニティ [総論]

「マスキュリニティ 男性性(男らしさ)とは、男であることにかかわる社会的実践や文化表象のセットのことである。男である方法や男についての文化表象は歴史的、文化的に多様であり、社会および社会のなかの男性集団によって異なるという認識から、複数形の「マスキュリニティズ 多様な男性性」が使用されることもある。」(J. ピルチャー・I. ウィラハン(片山 亜紀ほか訳)2009『キーコンセプト ジェンダー・スタディーズ』新曜社:100.)

縄紋時代の「石棒」と呼ばれている棒状石製品をどのように展示するかというのも一つの社会的実践であり文化表象である。

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男根支配を欲望する象徴 [総論]



九州国立博物館、2014年の出来事である。
「立たせたい」という、あからさまな自己欲望のディスプレイである。
九州国立博物館には「いくら何でも、やり過ぎじゃないですか」という女性の学芸員はいなかったのだろうか?

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返還問題2017 [総論]

日本における返還問題のうち、先住民であるアイヌ民族への遺骨返還に至る最近の経緯がまとめられている(植木 哲也2017「補章 遺骨の返還を求めて」『新版 学問の暴力 -アイヌ墓地はなぜあばかれたか-』:271-316.)。

そこで問題となっているのが、象徴空間への集約をめぐって返還対象について持ち出された遺骨の個人が特定されたもので請求者が祭祀承継者であることを求める所有者側の「個人返還」と身元不明なものも含めて地域共同体であるコタンへの「地域返還」を求める請求者側との対立である。個人返還の立場を取れば、返還すべき遺骨は最小限に、「地域返還」の立場を取れば最大限になり、その格差は大きい。そして双方の思惑が複雑に絡み合っている。しかしこうした双方の意見を読みながら、何か根本的な原理原則が踏まえられていないような気がしている。

それは第1に「博物館が所蔵する先住民族由来の文化遺産の処遇を決定する権利は先住民族の側がもつこと」(吉田 憲司2011「史料・文化財はだれのものか -史料公開・文化財返還の問題-」『歴史を裁くことの意味』)である。こうした考え方が世界的な趨勢であることは、世界考古学会議での議論を始め多くの場で明らかである。
そして第2に「自分たち博物館は所有者ではなく、「管理者」であるということ」(同、吉田 憲司氏発言:113.)である。すなわち現在の所有者は本当の意味での所有権を有しているわけではなく、あくまでも借用しているのだという認識が欠かせないのである。現在の管理者である博物館・大学と返還を求めている先住民共同体は「返す・返さない」あるいは「どれだけどこまで返すのか」といった論点で対立するのではなく、平等な協力関係に基づいたガイドラインを構築すべきであり、その為には管理者側の従来の価値観に固執した硬直した認識を改めることが第一歩となる。

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セリエーション [総論]

セリエーションとは、何だろうか?
代表的には、以下のような説明がなされている。

「<学習目標&ポイント>
身辺の流行現象を見ればわかるように、モノは突如出現するわけでもないし、それ以前からあった同種のモノに直ちに置き代わるわけでもない。新しいモノは次第にあるいは急速に台頭し、それに合わせて、古いモノは次第に姿を消す。こうしたモノの変遷を視覚的・数量的に示す手法がセリエーションである。アメリカ考古学で開発されたこの手法を、具体例を挙げて解説し、日本における応用例から、その方法論的可能性を示す。」(上原 真人 2009 「セリエーションとは何か」『考古学 -その方法と現状-』放送大学教材:129.)

そしてペトリ―氏のSD法(Sequence Dating)、ディーツ氏のストンハム墓地墓標、坪井・横山両氏の山城木津惣墓墓標、鈴木氏の近世六道銭分析と型どおりの説明がなされている。
こうした説明に何か欠けているものがありはしないだろうか?

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「日本考古学」の国際化 [総論]

「日本考古学」にとって「国際化」とは、どのようなことなのだろうか?

「とするならば、英語圏の言語・考え方に歩み寄るという形だけを「国際化」と位置付けてしまうと、スペイン語圏のように「なぜ英語だけが国際基準になってしまうのか?」という不満につながる可能性があります。非英語圏の人間たちが「国際化」を考えるのと同時に、英語圏の人たちもやはり「国際化」を考えていくべきだと思います。(細谷)
中南米においても同様な話しがあると聞きます。さしたる理由もなく、私も英米を普遍的存在ないし世界の代表のように見なしがちでした。反省が必要ですね。(瀬口)
「欧米」対「日本」とつい考えてしまいがちですが、一口に「欧米」と言っても多様です。学問的指向としてはむしろ日本に近い国々も多いことに改めて気づきました。日本考古学の「国際化」を語るとき考慮すべき事実だと思います。(細谷)」(瀬口 眞司・細谷 葵・中村 大・渋谷 綾子2014「日本考古学の国際化 なぜ必要か?/何が必要か?」『考古学研究』60-4:8.)

「日本考古学の国際化」を語るときの文脈として、英語圏だけでなくスペイン語のような「非英語圏」の存在にも留意すべしという話しである。

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