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緑川東問題2020(その1) [総論]

「ただ、大形石棒の機能時に立っているか否かについての議論は、地域や時期によって異なると推測されるが、ジェンダー論の問題ではなく、あくまで出土状況に対する研究者間の見解の相違に起因するものである。」(阿部 昭典2020「遺構論」『縄文時代』第31号:200.)

本当にそうなのだろうか?
そもそも「大形石棒の機能時」とは、いったいどのような状況を指すのだろうか?
そのような状況が具体的にイメージできないからこそ「第2の道具」といったカテゴリーが提唱されたのではなかったか?

それよりも問題なのは、緑川東問題からジェンダー論を切り離す意図である。

「石棒」と呼ばれている「棒状石製品」と対比される「土偶」と呼ばれている「人形(ひとがた)土製品」について考えてみよう。
土偶を立てて表象するのは、それがあくまでも「人形(ひとがた)」すなわちヒトの形を模していると私たちが考えているからである。そしてヒトというものは、立った状態で表象するという社会的なルール(規範)があるからである。決して土偶という考古資料の「出土状況に対する研究者間の見解」に起因するのではない。

同じように石棒を立てて表象するのは、「出土状況に対する研究者間の見解」に起因するのではない。あくまでも石棒が「男根(ファルス)」を模していると私たちが考えているからである。

大形石棒を立てて表象するというのは、「男根に対する研究者間の見解」に起因するのではないのか?
こうした問題は、ジェンダー論以外の何物でもないのではないか?

別にバトラーやラカンにまで遡らなくても、「石棒」と呼ばれている考古資料に言及する研究者は「ファルスの意味作用」に対して最低限の認識を弁えておく必要があるのではないか?

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五十嵐彰

土偶が機能時に立っているか否かについてはそれほど気にならないのに、大形石棒の機能時に立っているか否かについてやたらと気になるのはなぜだろうか?
by 五十嵐彰 (2020-09-07 20:12) 

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