マスキュリニティ [総論]
「マスキュリニティ 男性性(男らしさ)とは、男であることにかかわる社会的実践や文化表象のセットのことである。男である方法や男についての文化表象は歴史的、文化的に多様であり、社会および社会のなかの男性集団によって異なるという認識から、複数形の「マスキュリニティズ 多様な男性性」が使用されることもある。」(J. ピルチャー・I. ウィラハン(片山 亜紀ほか訳)2009『キーコンセプト ジェンダー・スタディーズ』新曜社:100.)
縄紋時代の「石棒」と呼ばれている棒状石製品をどのように展示するかというのも一つの社会的実践であり文化表象である。
「コンネル(Connell 1955,2000)は、男性性についての社会科学の分析を発展させ、それをより広範で関係的なジェンダー理論の一部に組みこんでいる。コンネルにとってジェンダーとは、人間の身体のもつ生殖能力と性的能力を繰り返し解釈して定義づけてきた、その最終的産物である。つまり男性性(と女性性)は、身体、パーソナリティ、社会のなかの文化や制度をめぐる、解釈と定義の効果として理解される。コンネルの説明では、多様な男性性は近代欧米社会に特徴的な「ジェンダー・ヒエラルキー」のなかで、いずれも女性性より高い位置を占める。ジェンダー・ヒエラルキーの最上位を占めるのは、「覇権的(ヘゲモニック)な男性性」である。これは文化のなかでもっとも強力な男性性の理想であり、その核をなすのが、権威、タフで耐久性のある身体、異性愛、有償労働である。ほとんどの男性はこの男性性の理想に実際には到達できないが、そこから利益を得ているので、コンネルはこのレベルを「共犯的な男性性」と呼ぶ。」(同:101.)
「石を投げるだの、レンガだの、要するにかけらも持って行って、(海上)保安庁の船の上に散らばってたじゃないですか。あちこち傷などついてたじゃないか。完全に公務執行妨害じゃないですか。何でそれを適用しないんですか。刑事犯ですよこれ。法律があるのにそれを適用しない国というのは、国家の体をなしてないね。怖い怖い怖い、シナさん怖い、問題を大きくしたくないという外務省の腰抜けが全部伝染してだね、もうちょっときちっとした態度を取らなかったら、本当に馬鹿にされ馬鹿にされ、ま、韓国の大統領じゃないけど、日本はもはや大国じゃない、正にそうなっちゃったんじゃないのかな。悔しくないか、君は、どうだい男として。」(2012年8月17日(金)石原慎太郎東京都知事定例記者会見録。原文。倉橋 耕平2014「男性性への疑問」『ジェンダーとセクシュアリティ -現代社会に育つまなざし-』大越 愛子・倉橋 耕平編、昭和堂:30頁より引用)
国防や安全保障という主題が、男性性(マスキュリニティ)と直接的に結び付けられている。
「どうだい?」と尋ねられても、「別に」としか言いようがないのだが。
「どうだい?」と尋ねられても、「別に」としか言いようがないのだが。
「ジェンダー秩序とは、社会のなかで諸個人が行うイデオロギー的・物質的な実践のパターン化された体系のことである。この秩序を通して男女の権力関係は繰り返し再編され、意味を付与される。男性性と女性性の形態や約束事(コード)が繰り返し創出されるのも、双方の関係が組織化されるのも、社会におけるジェンダー秩序を通してである。」(ピルチャー&ウィラハン2009:75.)
性別を考えるに当たって、生物的な違いと社会的な違いを分別するのが、ジェンダー・スタディーズの基本となる。男女の組合せ(カップル・夫婦関係)を考えても、身長の違い(男性は女性より背が高い)は生物的な違いであるが、年齢の違い(男性は女性より年上である)は社会的な違いである。
なぜなのか。
「マーシャル(Marshall 1994)は、ジェンダー秩序という概念はジェンダーの分析、とりわけ各人の有するジェンダー化された主体性と、社会構造としてのジェンダー関係を理解するのに有益であると考えている。マーシャルにとって、ジェンダー秩序は「解釈様式(モード)」を提供してくれる。各人は、主観的かつ社会的で、身体化されたアイデンティティを構築するのにこの方式を用いる。しかしながらマーシャルは、ジェンダー化された主体性が権力関係の配置のもとでどのように形成されていくのか、とりわけ理解力も行動力も備わっている主体が、なぜその地位を再生産する諸条件の正当化にすすんで参加する傾向があるのか、もっと十分な説明が必要であるという(Marshall 1994:117)。」(同:77.)
「石棒」と呼ばれている棒状石製品について、樹立形態がごく自然で当たり前のことで、それ以外の在り方は有り得ないと思い込ませること、見せかけること、こうした「解釈様式」が、どのように形成され、どのように受容され、あるいはどのように抵抗されてきたのか、その「解釈と定義の効果」を測定することを通じて根深い男性中心主義を見直す、これが日本におけるジェンダー考古学の試金石となる。
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