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五十嵐2019b「考古学における解釈のあり方について」 [拙文自評]

五十嵐 2019b 「考古学における解釈のあり方について -緑川東を読み解くために-」『考古学ジャーナル』第728号、特集 縄文人の心性と世界観:5-8.

初『ジャーナル』である。編集部にお願いして、何とか恥かしい写真の掲載だけは回避させてもらった。
名前のローマ字表記については、文科省の通達を添えて編集部に変更を依頼したのだが、受け入れてもらえなかった。早急な検討を望む。

「今回は緑川東の大形石棒を事例として、その解釈のあり方について時間論・部材論・ジェンダー論という3つの観点から確認する。」(5.)

2016年から引きずっている「緑川東問題」に関する2019年時点での総括である。
以前より緑川東問題について構想していた時間論・部材論・ジェンダー論を示したベン図を提示することができただけで満足である。

「焼土も灰も認められない長さ150cmの掘り込みが「炉」だとしたら、それは「炉」の一般的な定義を変更する必要があるだろう。」(7.)

「床下土坑D1」が炉であるかどうかについて、あるいはSV1の廃絶時に壁面に積石といった増築行為がなされたか否かについて、緑川東の考古誌作成に関わった「住居再利用(廃棄時設置)説」の人たちはどのように考えているのだろうか? 緑川東の考古誌には、そのようなことは一言も記されていなかったのだが。こうした部分における意見の対立というのは、一見すると「住居再利用説」陣営における内部対立のようにも思われるのだが、実は「考古学における解釈のあり方」に関わるかなり本質的なものではないかとの予測がある。
改めて「緑川東遺跡の大形石棒について考える(第2弾)」を開催する必要がある。

「私たちは「縄文人の心性と世界観」を読み解くために、まず「私たちの心性と世界観」を読み解かなければならないようだ。」(8.)

「縄文人の心性と世界観」と題する特集号において、本題に入る前に解決すべきことがあるのではないかという入り口で注文をつける大胆不敵な論考である。
編者には、このようなものしか書けませんがそれで宜しいでしょうかと念押しをしたうえでの執筆受諾であった。

「執筆いただく4氏の解釈は、筆者のシンボリズム論とは異なる解釈論ではあるが、自説に固執するつもりはない。これからの縄文研究を推進するためには、さまざまな解釈論の提示と、それらに対する議論の提起が何よりも求められることから、本企画の意義は大きいものと考える。」(大島 直行「シンボリズムから読み解く縄文人の心性」:4.)

編者の雅量に感謝である。

「分類整理手法である型式論や編年論と、集落論や生業論などの解釈論との間には、見過ごすことのできない乖離が存在していたのではないだろうか。」(大島:3.)

「型式論や編年論」と「集落論や生業論」との間に乖離があるとの意見である。私も、同意見である。
しかし今回私が提示した「時間論」や「部材論」そして「ジェンダー論」は、この見取り図のどこに位置するのだろうか? 私からすれば、「型式論や編年論」も「集落論や生業論」も「第1考古学」との結び付きが濃厚である。

「文化によって認識や考え方が異なるという指摘は別に新しいものではない。しかし、文化的多様性が単にいろいろあるというものではなく、特定の物質的環境と不可分に結びついて、歴史的、系統的に発生するものとして捉えなおすことによって、物質的環境の特性から心性の長期的変化を明らかにしたり、社会的、技術的変化が生じるメカニズムを物質・身体・心の相互作用という視点から分析したりできるのではないかと期待される。」(松本 直子「認知考古学から読み解く縄文人の心性」:16.)

こうした文章を読むと、筆者の脈絡とは異なる意味で感じるものがある。
すなわち次回の「緑川東問題を巡る公開討論会」では、私たちとは異なる文化環境に身を置く考古学者たち、例えば欧米系の認知考古学たちにも参加してもらって、縄文考古学における「廃屋儀礼説」受容の「心性の長期的変化を明らかに」したり、「日本考古学」におけるそうした「メカニズムを物質・身体・心の相互作用という視点から分析」する必要があるのではないかという妄想である。

結論
「日本考古学の心性と世界観」という特集が必要ではないか。

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