五十嵐2019c「旧石器研究における接合の方法論的意義 -「砂川モデル」の教訓-」 [拙文自評]
故に、この場にて以下の訂正をお願いすることとなる。
62頁・左段・下から12行目:…として提示いるのならば… → …として提示されているのならば…
63頁・左段・上から7行目:(剥片・加工石器」 → (剥片・加工石器)」
そのほかにも何箇所か指示していたのだが、レトリカルな部分なので、省略する。
しかし、こちらとしては編集担当者の指示に従って校正を提出した時点で、当然修正されているものと信じ込んでいるのだから、そして再校がないのならば、なおさら編集担当者は修正箇所について最低限確認する責務があるのではないか? 閑話休題
2.石器製作工程は、常に前半と後半に区分されるのか?
3.一つの原石から産み出される石核は、常に一つなのか?
4.「砂川モデル」では、石器製作の実態を説明できないのではないか?
5.石核を残滓として、石核があれば製作行為の痕跡と言えるのか?
6.石器製作の工程連鎖は、製作廃棄の連鎖だけなのか?
7.石器資料の製作と搬入を区別するには、どうしたらいいのか?
五十嵐2019b「考古学における解釈のあり方について」 [拙文自評]
名前のローマ字表記については、文科省の通達を添えて編集部に変更を依頼したのだが、受け入れてもらえなかった。早急な検討を望む。
以前より緑川東問題について構想していた時間論・部材論・ジェンダー論を示したベン図を提示することができただけで満足である。
五十嵐2019a「旧石器接合個体2例」 [拙文自評]
2019年3月の時点で365個体の接合資料が得られているが、その中から注目すべき2例を紹介した。
「アチャー」という旧石器人の悲嘆が、ビシビシと伝わってくる資料である。
実は本稿の挿図のために苦労して接合状態の実測図を仕上げた後に、表面に更に1枚調整剥片が接合することが判明したが、既に間に合わず。
「つきました!!」と嬉しそうに報告してくれる作業員の方に対して、実測・トレースをやり直さなければという思いが頭を駆け巡りつつ、「よかった!!」と心中とは相反する笑みを浮かべつつ応対する複雑な心境。
2018c「鉛筆で紙に線を引く -考古学的痕跡-」 [拙文自評]
考古学はその発見のたびごとに人類史を書き換え、私たちの人間や社会をめぐる常識を揺さぶり続けてきた。
本特集では、考古学の最前線から、現代思想やイメージ論への拡張的な側面まで、その尽きせぬ魅力を掘り起こしていく。(出版社宣伝文より)
思想・哲学をメイン・フィールドとする完全アウェイの試合で、持てるもの全てを出し尽くす。
さて、その採点結果は?
大胆なサイドチェンジ、オープンスペースへのロング・フィード、2列目・3列目からの駆け上がり、ヒールとスルーを交えた多彩なワンツー、流動的な全員攻撃そして全員守備、これぞ「リビング・フットボール」。
あるいはバラバラだったピースが然るべき場所に納まっていく、とでも言おうか。
第2考古学の目標である、本質的で根源的な事柄に少しでも接近すること。
果たして?
確かに言えることは、一つ。
ここに一つの痕跡を記した、ということ。
後年、何処かの、誰かが、その痕跡を確かめてくれるだろう。
2018b「考古累重論」 [拙文自評]
2018a「「生ける歴史」とは何か -渤海国半拉城址発掘を中心に-」 [拙文自評]
五十嵐2017c「接合空間論」 [拙文自評]
「返還考古学」という新しい枠組みへ [拙文自評]
WAC-8が浮かび上がらせた世界の中の「日本考古学」 [拙文自評]
五十嵐 2016e 「WAC-8が浮かび上がらせた世界の中の「日本考古学」」『東京の遺跡』第106号、3-4.
「また研究発表のあり方についても、強い印象を受けた。もちろん各研究者の発表を聞くのが主眼なのだが、イメージとして発表はあくまでも議論の材料に過ぎず、より重視されているのは発表後の発表者と聞き手の間でなされる議論のように思われた。あらかじめコメントを述べる人が決められており、当たり障りのない質問がなされて無事?に終了するのが一般的な「日本考古学」との大きな違いである。」(4.)
こうした議論に参入するには、英語力はもとより、研究というものに対する心構え、研究姿勢というものから鍛え直さなければならないだろう。
トレーニングとしてのディベートというスキルが決定的に欠けているお国柄で教育を受けた者は、自らが意識的に身に付けていかなければならない。
五十嵐2016c「緑川東問題」 [拙文自評]
五十嵐 2016c 「緑川東問題 -考古学的解釈の妥当性について-」『東京考古』第34号、東京考古談話会:1-17.
「2012年6月30日、多摩川中流域左岸からおよそ500mの青柳段丘面に位置する緑川東遺跡第27地点の「敷石遺構SV1」と名付けられた遺構の中央部から、4本の大形石棒が並んだ状態で確認された。
この発見は「これまでの石棒研究の「常識」を覆す」(清水2013d:101.)と評されたが、私もこうした事例は単に石棒研究に限られない「前代未聞」「百年に一度の大発見」と考える。だからこそ緑川東遺跡の4本の大形石棒をどのように評価し、その意味についてどのように解釈するのかという点について、様々な立場から多様な議論がなされることを望んでいる。本論は、そうした問題提起を目的とする一つの試論である。」(1.)
これからは、「6月30日」を「石棒の日」として提唱したいくらいである。
『東京考古』に投稿したのは、17年前の「旧石器資料報告の現状」(五十嵐1999『東京考古』第17号)以来である。
事ここに至るには、それなりの経緯があった。