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古谷2020『人類学的観察のすすめ』 [全方位書評]

古谷 嘉章 2020『人類学的観察のすすめ -物質・モノ・世界-』古小鳥舎

「1987年3月、アメリカ合衆国南西部、ニューメキシコ州のネイティヴ・アメリカン保留地で、「夕暮れの小雨の中、「弓の司祭」(a:pilha:shiwani)が、双児神「アハユーダ」(Ahayu:da)の二つの木像を、ズニ・プエブロの村を見下ろすメサの上にある祠に据えた」。この二つの木像は1880年代に白人研究者たちによって東部に持ち去られて、ワシントンにあるスミソニアン・インスティテューションの収蔵物となっていたものが、9年越しの交渉の結果、ようやくズニの地に返還されたものだった。研究者や博物館あるいは販売業者や愛好家によってネイティヴ・アメリカンの地から奪い去られたモノの「返還」(repatriation)を求める運動は、ズニの人々のアハユーダ返還を求める粘り強い交渉を嚆矢として、1990年の「アメリカ先住民墓地保護・返還法」(NAGPRA)の成立を経て、さらに広がりをみせてきた。この問題は、大英博物館にある「エルギン・マーブル」とよばれるパルテノン神殿の彫像・浮彫や「ロゼッタ・ストーン」など、必ずしも合法的ではない経緯で、それを生み出した土地から遠く離れた博物館に収蔵されているモノに対する返還要求へもつながっていく大問題であるが、…」(「41 朽ち果てるべき木像 -耐久性偏愛は普遍的ではない-」:136.)

B6版、253頁、73の主題が3頁単位で記される「肩の凝らない」エッセイ集である。
著者については、1年前に『縄文ルネサンス』を評して以来である。
4年前に出版された共同研究の論文集『「物質性」の人類学』が「問題の所在を理解してもらうのは難しかった」(239.)ために「具体例をふんだんに盛り込んだデモンストレーションによって、観察+考察のエクササイズを実演してみせること」(同)に至ったとのことである。
あちこちで、私の関心とも深浅にわたって触れ合う書籍である。

「私は小学生から高校生までボーイスカウトの団員で、毎週日曜にカトリック教会附属幼稚園の園庭を借りて活動していたのだが、活動の前に教会でのミサに参加しなければならなかった。」(「35 全質変化という素材転換 -キリストの血と肉-」:118.)

私は小学3年から大学1年までボーイスカウトの団員で、毎週日曜にプロテスタント教会の敷地で活動していたのだから、親近感を覚えざるを得ない。

ここではカトリックの「聖体拝領」という考え方が「全質変化という素材転換」という主題で取り上げられているのだが、「実体が変わらないままに別のモノに変ずる」という理屈は同じキリスト教でもプロテスタント側から見れば理解が困難な解釈の一つである。

「15 粘土とプラスチック -何でも作れる可塑的物質の汎用性-」(54-56.)では、プラスチックという材質について語られているが、私もプラスチックを対象にした考古学について考えたことがあった。
改めて読んでみると、今からもう14年も前のことであった。

「…ネパールのヒマラヤ高地の道に光を当ててみよう。ネパールにも舗装された車道はある。そしてそれは世界の他の地域でもそうであるように、発展・近代性・国家を体現し、その導入回路と見なされる。しかし、そうした車道は、どこかで終わり、人やヤクなどの家畜が歩く道に変わり、その道はやがて「エベレストをはじめとする高峰の頂上へと続いている。」(「25 車輪のための道/歩いてできる道 -舗装された車道と高山の山道-」:88.)

首都カトマンズからプロペラ機で約1時間、そこから徒歩で10時間、途中「ホテル・エベレスト」という立派な名前の山小屋に泊まりながら歩いた山道を想い出す。これは今から6年前のことだった。

「2010年にイギリスのイーストアングリア大学で開催された『出土したもの』(Unearthed)展では、縄文土偶とバルカン地方の新石器時代の「土偶」を、ミニチュアのフィギュアなど現代のモノと並べて展示した。そのときに出版された書籍には、「世界には、もののスケールが複数存在する」、そして「ミニチュアのモノは、私たちの通常の参照領域から私たちを引き離す」と書かれている。ミニチュアの縄文土器も、それを手にした人々を日常から引き離し、そして別のスケールの世界へと誘ったのであろう。」(「31 ミニチュアは何の道具か -玩具、祭祀具、それとも?-」:106.)

イーストアングリア大学のあるノリッジを訪ねて、フリントで作られた旧市役所を見て魂消たのは、3年前のことだった。

ミニチュア土器があれば、ミニチュア石器もあるだろう。そして想い出すのは、昨年報告した「ビクニシー」の長さ2cmに満たない超小形男女倉タイプの有樋型尖頭形石器のことである。これではいくら何でも実用には耐ええないだろう。そしてそれを生み出すには「超絶技巧」を要するとされる有樋型尖頭形石器である。それをミニチュア・サイズで実現しようというのだから、必然的に「別のスケールの世界」に誘われざるを得ない。

「遺跡の名前は失念したが、一つの石から作られた石器が別々の集落址から出土した例がある。一方で作られて他方に移ったか、別の土地で作られたモノが二つの集落に分配されたのだろうが、別れた後も片割れを意識しつつ使われていた可能性も否定できない。まるで生き別れになった双子のように。」(「68 断片と全体 -割符、歴史の天使、ミロのヴィーナス-」:223.)

これは、1類接合(剝片剥離面での接合)と2類接合(石器破損面での接合)では大分意味合いが違ってくるのではなかろうか(五十嵐2000「接合」『用語解説 現代考古学の方法と理論Ⅱ』:164-175.など)。筆者はどうやら2類接合を念頭に置いているようなのだが。

そして最後は「71 世界は物質の流れのなかにある -作ることと生まれ育つこと-」(インゴルド)と「72 マルチナリュラリズム -人類学者ヴィヴェイロス・デ・カストロの世界像-」という最新の人類学の潮流が紹介されている。これまた当然であろう。

考古学、特に日本の考古学者は、こうした多様で最新の「物質研究」に対してどのような対応を示すだろうか。
すべての考古学者は物質を研究している、はずなのだが。


タグ:もの 物質性
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古谷嘉章

『「物質性」の人類学』と『縄文ルネサンス』に引き続き、『人類学的観察のすすめ』を書評に取り上げていただき、ありがとうございます。石器の専門家の目に触れることを想定していなかった駄文にするどい指摘をいただき、恐縮至極です。「断片」の項目で言及した石器の件に関して、1類接合と2類接合の差異についての御指摘、さらなる思考を促してくれるものでした。双子と言っても、前者は二卵性、後者は一卵性のような気もします。ボーイスカウトでは、ある種の観察力も養われ、いまだに、どこかでそれが影響しているかもしれません。Once a scout, always a scoutと言いますから。今回の本は、『縄文ルネサンス』のときに戴いた宿題の答えにはなっていないので、それについてはまたの機会ということで御容赦ください。今後ともよろしくお願いします。(古谷)
by 古谷嘉章 (2021-01-31 12:31) 

五十嵐彰

1類接合、すなわち石核と剝片の関係については、私は「二卵性」というよりは「親子」の関係ではないかと考えています。石核という親から剝片という子どもが産み出される。ある場合には産み出された子どもである剝片からさらに子どもである剝片(孫)が産み出される(剝片石核)… そしてこれはさらに専門的になりますが、「母岩識別」という「日本考古学」独特の手法は、「親子」関係までしか言及し得ない限定的な手法ではないかというのが、私の近年の結論です。「物質人類学」という新たな領野(すなわち考古学?)に関する刺激的な論究を期待しています。
by 五十嵐彰 (2021-02-01 08:13) 

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