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全2017「「韓国文化財」形成過程に関する史的考察」 [全方位書評]

全 東園(ジョン ドンウォン)2017「「韓国文化財」形成過程に関する史的考察 -植民地期「朝鮮文化財」研究の成立と言説空間の形成-」博士学位論文(東京外国語大学)

序論
第1章:近代日本「学知」の朝鮮侵出
 第1節 東京帝国大学の海外学術調査と朝鮮半島
 第2節 八木奘三郎の「大韓帝国」調査 -「朝鮮文化財」調査の開始-
第2章:関野貞の「朝鮮文化財史」研究
 第1節 関野貞の学問的背景
 第2節 関野貞による「朝鮮美術(史)」研究の内容 -活字化された書物の分析を通して-
第3章:植民地期朝鮮における「朝鮮文化財」言説空間
 第1節 併合前、「朝鮮文化財」言説領域
 第2節 併合後、朝鮮総督府の行政空間における「朝鮮文化財」
第4章:植民地期朝鮮「博物館」という言説空間
 第1節 植民地期朝鮮における博物館の記録 -「李王家博物館」という言説空間-
 第2節 「朝鮮文化財」言説空間の拡大 -朝鮮総督府博物館の誕生-
 第3節 朝鮮総督府博物館の経営主体と所蔵品に関する考察
結論

本文271頁に、付録として1関連年表、2関野貞の朝鮮関連の文、3『古蹟及遺物台帳抄録附参考書類』学務局古蹟調査課、1924年、4『朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物一覧』朝鮮総督府、1940年7月、5朝鮮総督府博物館『陳列物品納付書』索引(1915年度~1929年度)、6鮎貝房之進・小田幹次郎・浅見倫太郎の言説、7職員列名(1925年4月現在)『朝鮮総督府博物館並古蹟調査事業史概要』、8総督府高級官吏及び担当職員、9渡邊彰の論考、10古蹟調査報告書とその掲載内容という57頁が付された総ページ数329頁の大作である。
オープンアクセス可能な「印刷」タブをクリックする前に、ある程度の心の準備が必要とされる由縁である。

論題の「韓国文化財」と副題の「朝鮮文化財」の違いは何か?
植民地期の文化財については「朝鮮文化財」、45年以降の半島南部の文化財については「韓国文化財」と使い分けられている(6.)。「韓国文化財」について考えるには、「朝鮮文化財」について考えざるを得ない。「日本文化財」とは全く異なるこうした在り方について、私たちはどのように表現したらいいのだろうか。

本論の目的は「植民地期を貫いて作り上げられた多種多様の「朝鮮文化財」の形成過程を時期別に分け検討し、そこから付着された「朝鮮文化財」の価値、つまり「歴史的」・「芸術的」価値をめぐる動向を明らかにしようとすること」(4.)および「植民地期の「朝鮮文化財」の調査及び研究活動を通じて、その概念を作り、その価値評価をくだした「日本人」の存在を明らかにすること」(5.)とされている。

「文科大学教授荻野文学博士は韓国現状の視察によりて国史の研究に資し、兼ねて半島の遺蹟遺物を調査せむがため、公命を承け、昨秋十一月上旬を以つて渡韓の途に上らる。今西文学士随行たり。行程、下関より釜山京城を経、鴨緑江を渡りて安東懸に入り、それより南下、鉄道線路に沿うて平壌に至り、江東懸を経て成川に至り、更に平壌を引きかへし、開城京城に歩を駐め、大邱を過りてまた釜山に出で、到る處研究調査を遂げられて、十二月下旬無事帰朝せられたり。今その成績について聞くに、統監政治施行前の韓国とわが藤原時代との類似は実に予想の表に出で、当時の社会状態にして、彼の現状によりて研究せられ得べきもの頗多く、博士は大學のために是れ等研究の貴重なる資料の多くを招来せられ、又大同江に散在せる高句麗古墳等調査の結果、多くの遺物を蒐集するを得、これ亦大學へ携へ帰らる。是れ等の資料遺物はその整理成るを俟ちて、大學に陳列會を開かるべく、博士が踏査研究の一端は近く本會の例会講演に於いて披瀝せらるべし」(1910年1月「荻野関野博士の韓国出張みやげ」『史学雑誌』第21巻 第1号:100.)

これら「韓国出張のみやげ」として東京大学に持ち帰られた「多くの遺物」は今どこにどのような状態で保管されているのだろうか?

朝鮮総督府の植民地統治の実績を誇示するために1915年9月に朝鮮王朝の正宮である景福宮を会場として「始政五年紀念朝鮮物産共進会」が開催された。様々なパビリオンが建設されたが、その内の一つが「美術館」であり、後の朝鮮総督府博物館となった。この美術館の展示品を蒐集するにあたって、朝鮮人の所有する「秘蔵品」の出品を強く要請することとなった。しかし朝鮮人の間では個人の「秘蔵品」をも供出させるやり方に不信感が高まり、なかなか集まらないという状況であった。

「或者共進会を貢進会と誤解して深蔵した書画、骨董物を隠匿する傾向があるという。これは恐ろしい誤解である。貢進会ではなく確実な共進会であるから、このような好機会を利用して朝鮮古代の文明を自慢して衰退していく朝鮮文明の復興を計画することが其祖先と其大家たる作者に対する一大義務ではなかろうか。…(中略)…永遠に朝鮮固有の美術が消滅する虞があって、今回に特別に美術館に全力を尽くすわけだから、絶対に貢進会になって当局がこれを自由に処分する理由がないので疑いを抱かずに出品を志願して…」(『毎日申報』1915年1月20日付)

こうした担当者末松熊彦の必死の説得によって最終的には朝鮮人100人から243点の出品を得ることができた。しかし結果的にはこれら個人収蔵家の出品物はすべて朝鮮総督府博物館の所有物となったという(225.)。

これは、明白な国家機関による詐欺行為である。
こうしたことは室内展示品だけでなく美術館前の庭園に装飾物として運ばれてきた石像品についても、同様であった。

「石塔が8基、石佛鐵佛合わせて7体が、朝鮮の各地から運ばれたのである。1915年の段階になると、関野貞らによる古蹟調査事業は一段落を告げた時期であり、各地に散在する遺物、とくに石塔や石仏鉄仏などに関する情報も、広く伝えられるようになった時期である。庭園の設計を担当した国枝の発想も、こうした「朝鮮文化財」をめぐる当時朝鮮の雰囲気を反映したものであった。共進会終了とともに、庭園に飾られた石造遺物も朝鮮総督府博物館の管轄する収蔵品となり、その一部は現在も景福宮の敷地に飾られている。」(227.)

そしてその一部であった利川の五重石塔は東京の大倉集古館の譲渡要請に応じた朝鮮総督府の裁可によって仁川から東京に運ばれて、今も大倉集古館が所蔵している(五十嵐2019『文化財返還問題を考える』:25-28.)。

本論は、韓国国立中央博物館にある朝鮮総督府資料を活用した重要な研究である。
筆者には、更なる研究の深化を望みたい。
ただ気になったのは、植民地考古学の中心人物である「藤田亮策」の表記が一貫して「藤田亮作」となっていることである。
また「侵略」ではなく「侵出」という用語が採用されている。

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