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プラスチックのない社会は [近現代考古学]

自宅の近所に廃プラスチックの圧縮処理施設ができるという。近隣の市民が集まり、強力な反対運動を続けている。

私たちの身の回りは、様々なプラスチックなど化学製品で満ち溢れている。スーパーで少し買い物をして、調理をして、中身はお腹の中へ、容器は不燃物の袋へ。その廃プラスチックは、焼却するか、そのまま最終処分場で埋め立てるか、しかし焼却するのも技術上の問題が多く、処分場の立地も容易でない。そこで、廃プラスチックを圧縮して処理する中間処理施設が必要となっている。しかし、その圧縮過程において、既知・未知の様々な化学物質が発生する。

ペットボトルなど選別が特化されているものは、まだしもリサイクルが可能である。しかし、それとて厳密に言えば完全なリサイクルではなく、ペットボトル→フリース→固形燃料といった一方通行のリユースである。
単に、処分場を邪魔者扱いするのではなく、いかに循環可能な社会を構築するかが求められている。例えば、エコトレイという名の生分解性プラスチックへの移行といったかたちで。

 

そもそも私たちの生活は、いつからこのようなプラスチックに囲まれた社会になってしまったのだろうか。年末年始に回収日が1週間休みになっただけで、台所に溢れかえる不燃ゴミの山。
「コンビニ」という名のコンビニエンスな生活が私たちの身の回りを取り囲み始めた頃から、その「コンビニ」を支える様々なコンビニエンスな容器も増殖していったようだ。

子供の頃の清涼飲料水といえば、ごとごとと重量感のある音をたてながら瓶入りのやつが転がり落ちてきて、自販機に取り付けてある栓抜きでシュパーと開けて、その場で飲み干すというものだった。それが、今では、いつでも好きなところで開け閉めできる様々な種類のペットボトル。

日本には24時間いつでも冷えたあるいは暖かい清涼飲料水を提供するための冷温機能を有する自動販売機が約260万台あり、その待機電力だけで原子力発電所1基分の電力が消費されているという。
なんということだろう。私たちがいつでもどこでも冷えたあるいは温かい飲み物を飲むためだけに、原発が必要とされるなんて。

プラスチックのない社会を、私たちは構想することができるだろうか?
そもそもこんなコンビニエンスな生活を手放して、昔の不便極まりない社会に戻れなんて?
しかし、ペットボトルがなかった生活がそんなに不便だっただろうか?
そもそもプラスチックのなかった生活がどのようなものであり、プラスチックがある生活とはどこがどのように変わったのか、いったいいつ頃からどのようにして、といったことについて、私たちはどれほど正確に知っているのだろうか?

考古学という学問は金属や土器が発明された経緯については熱心に語るのに、プラスチックやゴム製品がもたらした社会的な変容については、とんと語ることがない。というより、語れない。
発掘していて、プラスチックが出てくると、まるでおぞましいものを見てしまったかのように目をそむけ、邪魔者扱いされている化学製品たち。

「もっと多く、もっと遠く、もっと早く、もっと豊かに」というコンビニエンス主義を乗り越えた先に、プラスチックのない社会を構想する。その時、プラスチックがなかった社会を描き出すことができる近現代考古学が必要とされる役割が小さいはずがない。いや、そうした二重否定の消極的な肯定ではなく、もっと積極的に述べておこう。
近現代考古学は、効率至上主義や科学技術信仰を根底から批判するためには、欠かせない存在なのだ。

大量生産・大量消費・大量廃棄・・・
何でも大量でないと維持できない(と思われている)私たちの社会を根本から見直すために。

「人類が、自然環境の中にある材料から技術(テクノロジー)をもって加工した品物(物質文化環境)の多くは、腐り、朽ちる物、すなわち土から生じて土に帰る物であった。それゆえ、唯一腐りにくい物、朽ちにくい物である「石器」や「土器」が、考古学の主たる対象とされてきたのであった。しかし、今日では物質文化環境における驚異的な技術革新が、決して腐らない物、朽ちない物を生み出し、環境汚染の元凶となっている。決して土に還元しないプラスチック、決して土に帰らない合成物質(ダイオキシン・PCB・プルトニウム・・・)。かつては、あらゆる物質が、自然環境と物質文化環境との間で生成と消滅のサイクルを形成していた。今や土に帰ることのない産業廃棄物を如何に処理していくのかが、大きな社会問題となっている。どのような環境モデルを構築し、環境問題にどのように対処するのか、生態システムへの社会的適応形態という社会と環境の関係性について考える場合には、先史社会を含めた長期的な視野が必要とされる。」(五十嵐1998b「最寒冷期の環境と適応 補説」『石器文化研究』第6号:p.102


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コメント 4

かつらこ

あけましておめでとうございます。
今年もブログ活動頑張ってくださいませです。
ゴミ問題は切実ですね。
ゴミの有料化も遅かったですしね。
私もお豆腐をお鍋で買いに行かされたこと思い出しました。
ただの移動手段なだけなのに...ですね。
よく考えてしまいます。そしてプラスチックものにはまるで興味がもてません。
by かつらこ (2006-01-04 21:02) 

五十嵐彰

かつらこさん、本年も宜しく。
考えてみれば(って考えなくてもそうなんですが)、考古学が相手にしているのは、ほとんどすべてが当時の「ゴミ」だったわけで、「ゴミ問題」とは、言い換えれば「考古学問題」とも言えるわけです。
だから、ゴミ問題に興味がない考古学者なんて、ちょっと胡散臭い?
by 五十嵐彰 (2006-01-04 21:13) 

研究室の窓

今年もよろしく。私が初めて発掘に参加した1980年代にはすでに遺物取り上げの時にはチャック付きビニール袋を使っていました。最近1950年代に調査された遺跡の整理作業をしていますが、大量の手紙用茶封筒の束が遺物と一緒に保管されているのを見つけました。そう当時の遺物取り上げ袋です。発掘現場でもある段階からビニール袋を使用するように変わったのですね。
by 研究室の窓 (2006-01-06 07:28) 

五十嵐彰

研究室の窓さん、ようこそ。
ものの材質ごとに研究するというのが、考古学のセオリーになっていますが、私たちの身の回りの品々をそうした目で見回したとき、私たちは今どれほどのことが語れるのか、目眩がしそうです。
by 五十嵐彰 (2006-01-06 12:25) 

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