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インゴルド2017『メイキング』 [全方位書評]

ティム・インゴルド(金子 遊・水野 友美子・小林 耕二 訳)2017『メイキング -人類学・考古学・芸術・建築-』左右社(Tim INGORD 2013 MAKING: Archaeology, Anthroplogy, Art and Architecture.)

「アート、建築、人類学という三つのAに、四つ目のAである考古学が加わったのは、マンチェスターからアバディーンに移り住んだ時期のことだった。そこには幾分か、考古学と人類学の境界上を長いあいだ彷徨ってきた、わたし自身の関心が反映されている。そこに考古学が入らなければ、アートと建築と人類学をめぐる関係の議論が完成することはないと確信したのだ。人類学と考古学の両者は、時間と風景のテーマを統合する(Ingold 1990)。人類学と考古学は、人間生活における物質的な形式や象徴的な形式への関心を共有するなかで、互いにずっと良好な関係だったわけではないのに、長いあいだ姉妹のような分野だと考えられてきた。その上、考古学の歴史とアートや建築の歴史には、明確な類似性がある。それは、人工物や古代の建築物へむける共通の関心だ。」(35.)

ティム・インゴルド氏は、プルーセル&ムロゾフスキー編2010『現代考古学の理論』と題する読本の筆頭に「景観の時間性」(1993)が収録されている理論考古学の文字通り第一人者である。

「握斧に秘められた本質的な謎は、それがどのように使われてきたのかにではなく、その形状(フォルム)の不変性の方にある。この不変性はいったいどこから来たのか。現代でも過去でも、それが人間の道具ということになると、一般的にはそれが知的な設計による生産物だと考えられることが多い。まるでつくり手が最初に完成品の形状を、心の眼というのこぎりで切りだしておき、それから実際の物体の制作に取りかかったとでもいわんばかりに。確かにアシュール文化の握斧の形状を、その規則正しさや均衡性を再考しながら吟味すれば、ある人物が意識して設計し、特定の意図をもって実現したものだと考えないことの方がむずかしい。両面加工という形式は、自然の不揃いな石塊から成る元の素材から、そして、その石を打ち砕いた人との関係からは、どのような方法であっても予示されて出現することはない。形式が恣意的に物質に押しつけられたのであるのなら、それはいったいどこに存在するというのか。ものの考え方の枠組みや社会的に伝えられる伝統の一部として、つくり手の心のなかに保存されていたとでもいうのか。まさしく、こうした結果論的な決めつけは、考古学の文章に良く見られるものだ。」(82-83.)

日本の旧石器研究では前半期の「局部磨製石斧」の用途が延々と論議されている。しかし「本質的な謎」はそうではないという。筆者が批判する対象は「範型論」であり、さらにギリシャ哲学にさかのぼる「質料形相論」という考え方である(54.)
石器作りに少し携わった人なら誰しも納得するだろう。どんなに理想的な「範型」を頭に描いていても、石器作りは常に期待を裏切り、予想を超えてしまう。ちょっとした打角と作業面形状の不備によって思わぬウートラ・パッセやヒンジ・フラクチャーが生じてしまう。思い通りと思った瞬間に、想定外の節理面や潜在剥離面によって折れてしまう。そんなことの連続で、常にその場その場で見通しを修正しながら剥離を進めなければならない。そうした石との対話、すなわち「相互作用」と「応答(コレスポンダンス)」が「石器作り」である。

「握斧の形状は事前の認識や生物力学によって強要されるのではなく、諸力の場に本来備わっている潜在性を解放することによって形づくられる。それは、実践者たちが石という素材と接触するなかで切りだし、生涯にわたって物質との格闘に従事し、彼らがようやく編みだした方法によって確立されたのである(Ingold 2000:345)。握斧の形状に出現するものとして理解することは、まさに力の場が押し開かれることで生成されたのだと認識することだ。今となっては明白になったように、握斧の謎は、つくることの質料形相論のモデルの内側に起源を持っている。それを解決するためには、まさに根源的なところから、そのモデルに挑戦しなくてはならない。物質の特性は、形状が生成されるプロセスにおいて、顕著なまでに直接的に決定される。したがって、質料形相論の哲学全体が依拠する、物質と形式の区別は容認できないことなのである。」(101.)

こうしたことは建築(シャルトルの大聖堂)であろうと、芸術(ヘンリー・ムーアの「盾をもつ戦士」をモティーフにしたスターリングの「寄生された作品」)であろうと、全てに共通することである。チェロの演奏でも、凧揚げでも、陶工ろくろでも、トナカイを捕まえる投げ縄でも、全てに共通することである。
「運動覚の動きは、変換装置によって、それに応答する物質の流れに変換される。」(213.)

織物ではなく、パッチワークへ、そしてフェルトへ(280.)。
そうドゥルーズ&ガタリの「平滑空間」である(287.)。

そしてたどり着いた結論は、「ロバになる勧め」である。
「真の学者はみな、ロバなのである。頑固で、むら気があり、粘り強く、好奇心旺盛で、気が短い。同時に自分たちの世界に魅せられ、感嘆している。ロバはあせらない。自分のペースで進んでいく。彼らは希望を頼りに生きる。確実性などという幻を頼ったりしない。彼らの行く道はあちらこちらへむかう。それは予測不可能である。彼らは些細な事物を心に留めて追いかける。そんなことをつづけながら、自分自身を見いだしていく。もうご承知のことだと思うが、すべての学びは己を知ることなのだ。」(298.)

人の生もまた内にある力をいかにどれだけ引き出せるかにかかっているということか。

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