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痕跡と自分とのあいだ [研究集会]

痕跡と自分とのあいだ:現代美術家とのSEA [socially engaged art] ワークショップ
 -出土遺物を通して、過去の出来事と現代の自身の思考との接続について考える-

日時:2022年 12月 3日 13:00-15:00
場所:慶應義塾大学 三田キャンパス KeMCo 9階

趣旨説明
「2018年の冬から2019年の初春、慶應義塾ミュージアム・コモンズの建設にあたって三田キャンパスで発掘調査が行われました。この調査で出土した遺跡は「三田2丁目町屋跡遺跡」と名付けられています。遺物や遺跡たちは、過去の出来事の痕跡であり、私たちが生活する町の地層に潜み、再開発などの機会に姿を表しまた土の中に戻っていきます。この非連続的な痕跡は、私たちの経験や想像力にどのように関わってくるのでしょうか。このワークショップでは、遺物や遺跡と参加者の私たちの個人的な経験との間に生まれる関係を、(詩学や散文的な)言語表現や(それ等を老諾(朗読?)するなどの)身体表現として出力することを試みたいと思います。現代美術家山田健二さんを講師に招き、「三田2丁目町屋跡遺跡」の試掘・発掘作業によって実際に出土した遺物や関連資料を用いたワークショップを通じて、最終的にはヴァーチャル空間の遺跡で表現を実践することを目指します。本ワークショップの成果は、山田健二さんの作品の一部として、2023年3月に慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)で開催される展覧会で展示される予定です。」(当日配布資料より)

プログラム
13:00-13:20 ワークショップ 趣旨説明
13:20-13:40 参加者 自己紹介
13:40-14:00 三田二丁目町屋跡遺跡の概要、3月のKeMCo展覧会で導入する視点
14:00-14:30 「遺跡とは何か」五十嵐 彰 ミニトーク
14:30-15:00 Q&Aセッション(五十嵐×山田×参加者)

11月18日に関係者から打診を受けて、11月24日に担当者から正式依頼があって実現した「ミニトーク」、未だに内実がよく分かっていないのだが、どうも広い意味での授業の一環のようである。

「MITA Intercept
この作品/プロジェクト「MITA Intercept」は、地中何層にもわたるこの地下空間を、文明のさまざまな時代を包含しながら、想像力豊かに、一般の人々の共有空間として開放するために始まりました。
名前が示すように、この作品は、人々の多面的な交流から生まれる、異なる時代、社会、距離へのインターセプトをベースとしています。「地層に潜む歴史をインターセプトする」「キャンパスコミュニティの多面性をインターセプトする」「三田の学術研究施設での研究を通じて現代社会をインターセプトする」「国際的なコミュニティやシームレスにつながるサイバー空間と相互にインターセプトする」。このように、互いに異なる、生き生きとした歴史の断片をインターセプトすることで、社会に対する新たな視点をひらき、未来を革新していくことを、このプロジェクトでは目指しています。」(当日配布資料より)

記されていることの半分ぐらいしか理解できないのだが、2006年に「遺跡は存在するか? -遺跡問題の構成-」と題して問題を提起して以来(IGARASHI 2006"World Archaeological Congress Inter-Congress: Osaka,2006":111.)あるいはこの時の口頭発表を文章化して以来(五十嵐2007「<遺跡>問題 -近現代考古学が浮かび上がらせるもの-」『近世・近現代考古学入門』:243-259.)、期待した考古学の側からは現在に至るまでほとんど何の反応もないのに対して、アートの側からこのような対応がなされたということに、感慨深いものがある。

「山田氏はソーシャリー・エンゲージド・アート(Socially Engaged Art:以下、SEA)のフィールドで活動する現代美術家である。SEAは作家が社会へ積極的に関与し、そこでの対話や協働を制作に結びつけていく現代美術における一つの方法論であり、山田氏はコミュニティでの対話をとおし、日常的には見えていなかったものを明らかにしていくアプローチをとる。「空き地」としてのKeMCo、そして「コモンズ」の概念が元々「入会地」を指し示したように、場を介して生まれる人々の交流や情報・事物の交換という点においてKeMCoと関心を共有し、長期的プロセスのなかで制作を進めてきた。
この協働プロジェクトは約二年前、三田二丁目町屋(跡)遺跡の発掘調査を現代美術家の目を通して記録・作品化していくことに端を発する。その過程で山田氏は、発掘現場、三田地域およびキャンパス内での積極的なアーティスト・リサーチを実施し、慶應義塾を交点として生じるさまざまな事象を含んでいく「MITA Intercept」の構想と、そこに集う人々(学生や市民)が関与し覗き見る世界を形にしていくという作品のコンセプトが生まれた。」(長谷川 紫穂2020「立ち上がるプロジェクト -KeMCoプレビューに向けて-」『三田評論』第1249号:91-92.)

当日の発表では、横軸として焦点となる「三田2丁目町屋跡遺跡」と称される<遺跡>と当然予想される周囲の<遺跡>群、例えば「三田1丁目町屋跡遺跡」、「常教寺遺跡」、「肥前島原藩屋敷跡遺跡」そして何よりも「江戸遺跡」との関係をどのように考えるのか、そして縦軸として「三田2丁目町屋跡」の下層から見出された諸<遺跡>との関係、例えば「弥生時代~古墳時代の遺構と遺物」(安藤2021:353-379.)で記述する際に採用されている様々な<遺跡>名称ははたして適切と言えるのかといったことを述べた。

一つの手掛かりは、パスコ2012『陸奥八戸藩南部家屋敷跡遺跡・陸奥八戸藩南部家屋敷跡下層遺跡発掘調査報告書』港区内近世都市江戸関連遺跡発掘調査報告といった使い方である。

何よりも『三田二丁目町屋跡遺跡』という考古誌を批評した際にも言及したが、近世の土地利用の変遷について17C前半・17C後半・17C末-18C初・18C前半-18C末・19C前半と詳細に述べられているのに対して、近代・現代については1873年の沽券地図に関する記載を最後にぷっつりと途絶えてしまう断絶した歴史認識について述べた。
言わば私たちが存在する現在に至る連続した土地利用痕跡の記述が無意識?に「インターセプト」されている現実を、改めて「インターセプト」することによって、地層に残された歴史の積み重なりを今一度回復しようという提案である。
本来「社会に対する新たな視点をひらき、未来を革新していくこと」が期待されていた大学研究施設に関わる発掘調査そしてその調査報告が、様々な制約のもとで成しえなかった「痕跡と自分とのあいだ」の語りを復元する斬新で意欲的な「語り直し」である。

「三田二丁目町屋跡遺跡」と名付けられた痕跡群は、本当にこの名称が相応しかったのか、そして今でも相応しいと言えるのか?
私たちが普段何気なく語り、あるいは目にしている<遺跡>なるものが、あるいは<遺跡>という言葉で表現されている相手は、本当に冒頭で語られているように「調査によって出土」するものなのか?
考古学業界の中に居る内部関係者(業界人)には、あまりにも身近過ぎて、それゆえ腰が引けて手が出せない奥深くて厄介で面倒な問題群を、だからこそ外部に居て考古学に関心を寄せる人たちが「痕跡と自分とのあいだ」をどのように見ているのか、興味が尽きない。

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