SSブログ

2021『三田二丁目町屋跡遺跡』 [考古誌批評]

トキオ文化財株式会社 編集 2021『三田二丁目町屋跡遺跡 -慶応義塾大学三田キャンパス東別館建て替え工事に伴う埋蔵文化財調査報告書-』

落手してから1か月ほど取り扱いに窮して、食卓の上に置かれたままになっていた。
いつまでもそうしておけないので、ようやく重い腰をあげることにした。

単独で論評しても深まらないので、10年前に刊行された同じような考古誌(慶応義塾大学文学部民族学考古学研究室・共和開発株式会社 編集 2011『会津藩保科(松平)家屋敷跡遺跡 -慶応義塾中等部新体育館・プール建設計画に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』)を参照軸とする。
こうした比較を通じて、本書で何が書かれているかということよりも、本書では何が書かれていないかということが明らかになるだろう。

論点は3点ほどである。

1.調査体制
10年前は学校法人内の考古学を担当する研究室と発掘支援会社の共同編集で発行主体は研究室単独であったものが、今回は発掘支援会社の単独編集となり発行主体は研究室と発掘支援会社の連記となっている。
かつては文学部内の研究室が曲がりなりにも主体とした発掘調査が行われて、実際の調査実務は学校法人と発掘支援会社の「調査支援業務の委託契約に基づき」行われ、編集作業は研究室から一名・発掘支援会社から一名の共同編集でなされていた。今回は民間会社が区教委と研究室の指導のもと、単独で調査を行い、単独で編集がなされている。

かつては研究室が主体となり株式会社の支援を得てなされた言わば「埋文センター方式」であったのが、今回は株式会社が主体となった言わば「丸投げ方式」となっている。外部の者には、伺い知れない苦渋の選択の結果なのだろう。しかし、これは考古学という学問の教育・研究機関としての重大な方針変更である。そうした経緯は本書の何処にも記されていない。

「本調査に関わる諸資料は、学校法人慶応義塾において保管・活用を図るものとする。」(ii)

調査から編集・刊行までを担当した組織ではなく、地元の教育委員会でもなく、費用を負担した事業者が記録図面類から出土資料までも保管している。
卑近な例になぞらえると、国道構築に伴ってなされた発掘調査の出土資料および発掘記録について、調査を請け負った埋文センターなどの調査機関ではなく、地元の市町村教育委員会でもなく、費用を負担した国土交通省が保管しているようなものである。

違和感を感じざるを得ない。
考古誌(報告書)の発送作業が調査を担当した編集機関ではなく、費用を負担した発行機関によってなされたというのも、かなり異例のことであろう。

2.<遺跡>問題
まず書名として採用された「三田二丁目町屋跡遺跡」についてである。
様々な関係者が叡智を絞って検討した末に採用された名称であろう。しかしこれでいいのだろうか?

10年前の「会津藩保科(松平)家屋敷跡遺跡」は、少なくとも調査区が1658年以来幕末まで当該名称の敷地であり、近代以降は田安徳川邸を経て慶応義塾の用地となっているので、近世における土地所有という意味での代表性は担保されていると言えるだろう。

しかし今回の「三田二丁目町屋跡遺跡」と聞いて、読者はどのような<遺跡>をイメージされるだろうか?
そもそも「三田二丁目」という町名(住居表示)自体が近世から現代に至るまで一定ではなさそうだし、現在の三田二丁目に所在する近世の町屋の跡だとしても、そこには寺社など町屋以外の構造物が点在しており、とてもある一定の範囲において意味ある連続体をなしていたとは思えない。
極論を承知で言えば「三田二丁目町屋跡遺跡」に相当するのは「三田二丁目大名屋敷跡遺跡」になってしまうのではないだろうか。

こうしたことを踏まえれば、「江戸」のような近世の都市<遺跡>を調査対象としたときに、無理やり「〇〇遺跡」という名称を与えることの困難さが見事に表出しているように思われる。

やはり埋文行政として一定の調査範囲を一定の調査期間においてある調査機関によってなされた発掘行為に対する名称(包蔵地)と、そうした発掘調査によって明らかにされた土地痕跡・出土資料の意味ある集合体としての名称(遺跡)を意識的に区別していくことしかないように思われる。
だからと言って、どうすればいいのか、すぐさま妙案が思いつく訳でもないが、少なくとも今回のような事例の場合には、調査区の名称および考古誌(報告書)の書名として「港区 No.195」という「包蔵地番号」で代表させて、どうしても具体的なイメージが必要とされる場合には妥協案として「港区 No.195(三田二丁目町屋跡 2018調査)」とでも付記するしかないのではないか。

それでもこのように無理やりある特定の時代名称で調査区から出土した全ての遺構・遺物・部材を代表させようとすれば、本書の場合には縄紋・弥生から古墳・古代・中世の様々な遺構・遺物(14~79.)を語る際には不適切と言わざるを得ないだろう。

3.近現代考古学
10年前には「調査1面」として近代の遺構群・出土遺物・部材が丁寧に報告されていた(16-72,242-297.)。
ところが今回は「Ⅴ期」とした19世紀前葉で、ぷっつりと途切れて終わりである。
今回の調査区からは、19世紀中葉以降の土地痕跡や出土遺物は一切出土しなかったのであろうか? もし出土しなかったのならば、そのことを記す必要はなかったのか? 
文献調査でも1873年の「沽券地図」までは述べられるが(275)、それ以降に調査区でどのような土地利用がなされたのか、現在に続く学校法人の所有になったのは何時なのか、一切は不明である。

「…これらの成長しつつあるもっとも現代に近い「新しい時代の考古学」の一群に対して、考古学の全体的な学問体系の中でいかなる性格づけを考えて行くかは考古学研究の体系を構築する上で欠くことのできない問題である。」(鈴木 公雄1988「近世考古学の課題」『村上徹君追悼論文集』:203. 2007『近世・近現代考古学入門 -「新しい時代の考古学」の方法と実践-』:3-11.に再録)

「現行の<遺跡>概念は、私たちが日常的に行っている2種類の排除によって成立している。すなわち平面的に<遺跡>ではないと認定した場所を「遺跡外」すなわち「非遺跡」とすることによって、発掘調査を必要とする場所(包蔵地)と必要としない場所を区分している。同時に<遺跡>と認定した範囲については、平面的に区切ることが困難な近現代などの「新しい時代の痕跡」を「調査対象外」とすることによって、「ここは区切ることのできる<遺跡>である」としている。」(五十嵐2007「<遺跡>問題 -近現代考古学が浮かび上がらせるもの-」『近世・近現代考古学入門 -「新しい時代の考古学」の方法と実践-』:250.)

33年前の恩師の提言を14年前に形にしたのだが、それ以来本書に至るこの状況は停滞なのか、後退なのか。
それとも新たな在り方を求めての模索なのか。
今後のより建設的な議論の喚起を期待したい。

nice!(2)  コメント(1) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 1

五十嵐彰

「堀内:大学の中でもそれぞれです。東大みたいに、今、調査担当者は大学の構成員でやる場合と、例えば青山学院とか、法政大学などのように民間調査機関が現地調査を担当する場合があります。慶応義塾大学の場合だと安藤さんがトップですがトキオ文化財株式会社がやられています。ただ、確か日吉の矢上遺跡は自前でやっていましたね。
那波:そうですね。矢上と、それから日吉の、何か校舎の増築みたいなのは、安藤先生がやられて。それから、ずっと昔のSFCは大規模だったので、結構、整理まで含めれば長い期間そういう組織があったという形ですね。今はもう誰もやらないんじゃないですかね。」(「座談会 考古企業を語る(2021年8月14日)」『考古学ジャーナル』第760号、特集 考古企業の現在:36.)
by 五十嵐彰 (2021-10-03 07:31) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。